And But Cause I love you


[μ]-εγλ 2000/11/01 15:26:34

横150cm
奥行き53cm
彼らの世界



***



「………なんだこの音楽は」
「んー?面白いよなー」

席を少し外した隙に、レコードを変えられたらしい。聞いたことのない曲が流れている。
部屋の空調は一定に保たれているが、お世辞にも新鮮な空気とは言い難かった。しけっている訳でもないが、どうも重い。
それは人物の雰囲気ではなく、実際の空気の重みだ。立ち上がるのも億劫になるような、腕を一振りするのにもエネルギーを要するような。
空気が密集している。身動きが取れなくなるくらいに、空気がこの部屋で固まっている。怠惰な夕方だ。
窓から差し込む陽光すらゆったりと動いている。耳に届くのは奇妙な音楽ばかり。
……何故オレの家にオレの知らないレコードがあるんだ?
ソファに寝そべるザックスは目を閉じて曲を聞いている。こいつが持って来たのだろうか。いやそんな様子はなかった。
ただ、こいつが原因であることだけは間違いない。何故こう毎度毎度、何かをしでかすのか、大人しくするつもりが無いのか。
蓄音機を見てみれば、何の事は無い、さっきまでかけていた曲が逆回しになっていただけだった。
やはり理由は判らないが。

「何故こんな事をしているんだ」
「ちょっと面白い話聞いたから」

目を閉じたまま答えるこいつに悪びれた様子はなかった。確かに、目くじらを立てる程たいしたことでもない。
ただ、レコードが傷まないか少し気になった。考えてみるが、そんなことはオレの知識にはない。知らないことを考えても面倒なだけだ。
自分だって別に細かい違いが判る訳ではないのだし、少しくらい痛んでも問題ないだろう。
元に戻さないまま、キッチンで水を飲む。ぬるい。
水すらも意欲を無くしているようだ、と随分とまぬけな感想を抱きながら、ガラスのコップを流しに置いた。
シンクと触れて、かこん、と小さな音をたてる。洗うだけの30秒が、何故こうも面倒なのだろう。
老人のようにゆっくりとリビングに戻る。一歩が重い。

「カントリーの曲を逆回しでかけると、失った物が手に入るんだって。」
「……意味が判らない」
「大画面テレビもDVDプレーヤーも洗濯機も戻ってくるんだ」
「そもそもお前は持っていたのか」
「…まぁ、洗濯機しか持ってないけどさ…。壊してもいないんだけどさ……。」

あいつは器用に片目だけ開いて答えた。答え終わると同時にまた閉じる。話は終わったのだろうか。
ほんの少し待ってみたが、続きの言葉はもう無かった。ふむ。
だったら読み掛けの本の続きでも読もうかと、向かいのソファに座る。
レコードは逆向きに回り続け、音楽は流れ続けていた。この部屋で唯一活発に活動している。耳障りな不協和音。
臙脂色の装丁。掌より少し大きい程度のその本は、いつになくずっしりと手にのしかかった。
ページを開いた途端にまた声が聞こえる。タイミングの悪いやつだ。

「でも、それだけじゃないんだって」
「何が」
「池も緑の芝生も髪の毛も戻ってくるんだと」
「………お前カツラなのか?」
「いやいやいや。」

そういうことが言いたいんじゃないんだって。
目を閉じたままつっこまれた。こいつは起きていたのか寝たいのか。よく判らない。
午睡には丁度いい日だ。それだけは間違いない。何もかもが眠りに落ちる寸前のような日。
傾いていく陽射しすら時を止めているかのようだ。もう面倒だからオレも寝てしまおうか。
思考が鈍りつつある。それでも悪足掻きのように本は閉じない。こいつの話を聞き流すべきか迷いながら、オレの目は文字の上を滑る。
“そして時至らば死ぬがいい”

「聞いてるのかー?」
「………ああ」
「理性も勇気も」
「……」
「誇りも、……」

不自然な沈黙。開いた本からザックスに目をやる。奴の目はまだ閉じたままだった。
長い沈黙が襲っても、続きを話すだろうという確信がある。仕方が無いので待ち続ける。
長い長い7小節の後、いっそ寝言のように、ザックスは小さく口ずさんだ。

「人生も」
「……………」
「最初のホンモノの恋も」
「……………」
「全部、戻ってくるんだってさ」

そこまで言って、あいつは口を閉じた。部屋に流れるのは逆立ちしたメロディ。
おそらく、この話に深い意味は無いのだろう。重い感慨も無いのだろう。ただ、なんとなく引っ掛かって、何気なく口にしただけなのだと思う。
浅い感慨と軽い意味。結局は『ちょっと面白い話』。その程度。
話のオチとしては随分と弱いな、とぼんやり思う。それもまた今日にはふさわしいのかもしれなかった。
ただの雑談だ。それも相当に程度の低い。気負うことなく固まることなく、口調すら愚鈍なものに変わりながら話は続く。

「……だからといって、何故ベルリオーズを逆回しにするんだ」
「へぇ。これベルリオーズっていう曲名なんだ」
「いや、作曲者の名前だ。そもそもその話の条件はカントリーなんだろう」
「だってセフィの部屋クラシックばっかなんだもんよ。つーかあったとしてもどれか判らんし。じゃあまぁ今回ってる奴逆にすりゃいっかーって」
「正直、かなり微妙なんだが」
「……それは俺も思った。ぶっちゃけ割と耳障り」
「自分でやっておきながら」
「戻しちゃっていーよ」
「自分で戻しに行くという発想は無いのか」
「ねみーもん」

オレも面倒だが仕方ない。重力に逆らって、開いた本をまた閉じてオレは立ち上がる。
これだけの動作をするのに、世界を一つ救ったかのような倦怠感。
ためいきをつきながらレコードを元に戻そうとした手は宙で止まった。いや、止まったのでは無い、止めたのだ。
……?オレは今ためらっているのか?
ストップのマテリアでも使われたか。我ながら馬鹿な考えが頭をよぎる。そんな筈が無いだろう。奴はは呑気にまた寝ている。
停滞した空気。停止した自分。止まらない音楽。流石に不思議に思ったのか、あいつはとうとう両目を開けてオレを見た。

「戻さねぇの?」
「いや………」

この感覚は何だったか。もどかしい。思い出せないが、考える。
俺はこれを知っている。この感覚を知っている。知っているなら、考える意味がある。
錆びた脳がゆっくりと動き始めた。

「もった……い、ない」
「へ?」
「そうだ、勿体ないだ。」

納得して、止まったままだった手をおろす。久しぶりの感覚だったものだから忘れていた。
ソファに戻る。ザックスの目はまだ開いていた。

「え、何、旦那、戻さないの?」
「勿体ない」
「……………はぁん。」

納得したように頷いてあいつはまた目を閉じた。オレは本を開く。
薄い意味に軽い感慨しかなくても、何も感じない訳ではない。ただそれだけのことだった。
なに、一つくらい動く物がこの部屋にあったっていいだろう。この音楽が止まったら、この部屋も停止してしまうような気さえする。
こいつはソファーに眠ったまま。オレは頭に入らないページをめくる形のまま。
逆再生の曲が、くるくると世界を回す。
こんな下らない愉快な話を、こいつはどこで聞いてきたのだろう。実に、この上なく、理解できない。
まあ、これは知らないのだから考えても無駄なことだ。さて、本の続きはどこだったか。
“時到らば死ぬがいい”
“死をことあげしたところで何になる”

「…逆回しに、したら」
「んー?」
「死んだ者も戻ってくるのか」

あいつは目を閉じたまま小さな声で、そうだったらいいな、と呟いた。寝言のように。



***



何も戻らないと判っているから、この戯れ事がいやに響く

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