And But Cause I love you


絶対少数の最大幸福

最高の幸せを



***



「あ」
「どうした」
「今日って何日でしたっけ」

僕は勿論今日が何日かくらいは知っているのだけれど、それでも確認のために、隣のベッドに寝そべる承太郎に尋ねる。
ホテルの夜。蒸し暑くて生ぬるい風があって、昼間焼かれた肌の熱がじわじわと溶け出していた。淡々と返ってきた答えは、やっぱり僕の予想通り。そうだよな。やっぱりか。

「何かあるのか」
「何だと思う?」
「さあな」

彼は流れるような動作でタバコに火を点けた。
興味が無いのかとも思うが、どうやらこれで通常らしい。続きを促しているだけのようだ。
彼のあまりにもささやかすぎるリアクションになれてきた自分が恐ろしくもあり、誇らしくもあり。誇らしく思う自分は相当やられているなとも思う。
友人というのは、そうか、こんなにも温かいものか。恥ずかしながらこの旅で初めて知った。
彼が同等のものを僕に感じているかは知らないが、それは一方通行ご愁傷様といったところだろう。なかなか面白いけれど、若干寂しい。
スプリングのきかないベッドに腰掛けながら、僕は考える。彼と僕の関係について。友人。そう。それは間違いないんだが。
どうも一方的な気がするのは気のせいだろうか。

「花京院」
「え、ああ、なんだい?」
「なんだいはねぇだろ。てめぇから話しかけておいて」

珍しく呆れた顔と目があった。慌てて思考を元に戻す。そうだな。うっかりしてた。

「いや、全然たいしたことないんだけどね」
「なんだ」
「新刊」
「新刊?」
「ええ。楽しみにしてた本の新刊。そういえば今日発売だったなあって」
「わざわざ覚えてんのか」
「生きる楽しみの一つだったからね」

彼は大袈裟だなと、笑うこともなかった。ただ、そうか、とだけ呟く。
そう。そうだ。僕は数ヵ月前から楽しみにしていた。絶対に発売日に買おうと。だって、二年ぶりの新刊だぞ?
漫画ならともかく、本なら取り立てて言うほど珍しいことでもないかもしれない。いや、やっぱり二年は遅い。独りの時間を消費していた僕にはかなり死活問題だ。
漫画とゲームと音楽と本。一人で完結した世界には必須の娯楽だった。これが無かったら間違いなく死んでいたと言い切れる。
いや、逆か。僕が唯一世界と繋がっていたのがそこだったのか。なんて狭い世界だったのだろう。本物はこんなに広くて広くて果てが無いっていうのに。
白い紙とその上に規則的に並ぶ文字だけが僕の世界だった。A4に収まる掌の世界。それは無限だ。ただ、僕は現実逃避のためだけに使っていたことは否めない。
今じゃあどうだ。はためくカーテン、開け放された窓。そこから見える景色。手を伸ばせば届くかのような浮遊感。本物の空気。

「誰だ?」
「作者が?」
「ああ」

そんなに有名でないけれどと思いながら名前をあげる。彼は一瞬沈黙して、口元の煙草を上下に揺らした。

「『線路に錆を。明くる日砂を。』」
「! 知っているのかい?」
「これしか読んでねぇが」
「読んでることが驚きだよ」
「俺が読書してるのは意外か?」
「いやいや。そうじゃなくてね」

口元に近づく煙草の火。いつまで吸っているのかなと思ったら素手で握りつぶした。熱くないのかい?と聞けば慣れた、と返される。なんだ、やっぱり熱かったんじゃないか。
彼の表情は特に何も伝えてこなかった。僕は、そう、気怠い風にただ苦笑するしかない。街の喧騒ももう聞こえなくなった。
ちょっとおかしなくらい穏やかな時間。

「この作者、そんなに有名じゃないし」
「そうなのか?」
「有名な賞も取ってなければ、映像化とかもしてないしね。執筆ペースも遅いから、まさか君が知ってるとは思わなかったんだ」
「まあ、手に取ったのは偶然だな」
「それにね」
「なんだ」
「絶対君、この手の話好きじゃないだろうと、思って」
「だから、これしか読んでねぇ」
「ま、苦手だと思った作家の別の本なんてわざわざ読まないよね。判るよ」

そう、こんなことを言ったら卑屈だと思われるかもしれないが、いや、逆に自分に酔っていると思われるかもしれないが、それでも僕は思う。
僕と彼はあんまりにも真逆だと。そう思う。感じる。
お前たちは似ておるよ。お前もなかなか熱いじゃあないか、そう言って笑ったのはジョースターさんだった。別にそれは否定しない。否定しない。
承太郎が熱い一面を持っていることも、僕が何だかんだ熱血であることも否定しない。
ただ、彼の熱さは僕の物とはまた質が違った物だと気が付いている。彼が正義ゆえの行動だとしたら僕のは単なる自己満足のようなものだ。
結局は似たようなもので、いや、それどころか同じものだと笑われるだろうか。正義も結局自己満足だと。
そう言われて言い返す頭を僕は持たないが、こういえば伝わるだろうか。彼は世界に求められているような気がする。
ああ、ほら、やはり自虐的になってしまった。こういう所が僕はよくない。
そう、こんなにも回りくどく何を思っているかと言えば、僕と彼の好みはあんまり合わないということだ。
勿論合う物もあるが、絶対的に合わない物の方が多い。そしてそれは別に不快ではない。
合わないのに不快じゃないなんて、それはまた愉快な感覚だった。未知の大木に出会った子供のようにわくわくしている。

「でも、僕はなんていうか、この退廃的な感じ、好きでね」
「退廃的、か」
「ああ。破滅しきれずにふらふらともがくあの感じかな」
「俺は殴りたくなったが」

ああ。彼のあんまりにもストレートな感想に、僕は笑うしかなかった。殴りたくなる。そうだろう。そうだろう。
あくまでも現実にはいない空想の存在だと言うのに、そこまで真剣に読んでいるあたり、彼だって読書は嫌いじゃないんだろう。
ただ、そうか、あの本を読んでの感想が、それか。本当に。なんというか、どうしよう、面白いな。
笑壺に入ってしまったらしい。小さな笑い声を僕は止めることができない。それを不思議そうに見やる承太郎。
静かな夜の静かな空気に、熱と一緒に溶ける。砂でざらついた空気も不快じゃあない。

「キミならそうだろうね。あんな優柔不断で自分の弱みに逃げ込んで言い訳ばかりする奴なんて、君の大嫌いなタイプじゃあないか」
「お前は好きなのか?」
「いいや?大嫌いだよ。ただ、なんていうかな。ちょいちょい心に刺さるというか」
「刺さる、ねぇ」
「自己嫌悪に近いのかなあ。自分の嫌いな所が文字になって表れてきてる感じ。それを客観的に見る羽目になるから刺さる」

あの本を読んで、僕も殴りたくなった。ただ、殴りたかったのは僕だ。僕自身だ。
僕は僕自身を滅多打ちにしたかった。原形もとどめないくらいにぶん殴りたかった。そうやって粘土みたいにぐにゃぐにゃになって、自分を作り直したかった。
鏡を見たって自分の内面の醜いところなんて見えないが、いやはや、あの本は随分と的確に僕の急所をついてきた。
違うか。あの本。僕はもう、一つの人格のようにあの本を扱うが、あいつは、僕のことなんて目に入っちゃいなかった。
読んでる読者のことなんて全くあの文章の眼中にはなかったのだ。だからこそ無機質に無表情に突き刺さる。
勿論僕はその僕の感情を実行になんて移さずに、深緑の栞紐を丁寧に本の最初のページに挟んで、作者順の本棚に並べた。
そうして、たまに、何か自分を罰したくなった時に、何か思い知りたくなった時に読みなおす。

「それでも、好きなのか」
「それだから、好きなのさ」
「随分とマゾなんだな」

呆れたように言われたが、その声は微量の笑いを含んでいた。嘲笑では無い、純粋な喜悦。
君には判らないだろうさ、とだけ負け惜しみのように言う。ああ、わからねぇなとあっさり返された。
彼の好き嫌いは、いっそすがすがしいほどに完結している。それは本当に尊敬して良い。
もしかして一番純粋なんじゃないかと、195センチの不良を前にして真剣に考えたこともある。好きな物は好き。嫌いな物は嫌い。
そうやって生きていくことのなんて困難なことか。まっさらでいるというのはいつだって一番難しいものだ。

「わからねぇ、が、少し判った」
「え?何が?」
「読んでて苛々するような本だったが、最後まで読んじまった」
「君が?」
「ああ」
「絶対に苛々して殴りたくなったところで読むのやめたと思っていたんだけど」
「ああ。そうしようと思ったんだがな」

なんでか知らんが最後まで苛々しながら読んじまった。
少し悔しそうに呟く彼に、僕はここぞとばかりに返す。君もマゾなんじゃあないかい?
本当に嫌そうな顔を返されたので、声をたてて笑った。他愛もない応酬。なんの気負いも無い会話。
このまま夜が明けるまで、ぽつぽつと、滑らかでも無く途切れるでもなく会話が続きそうな空気。
名残惜しいが、しかし明日からまた旅が続くことを思えば、そういうわけにもいかない。もうそろそろ眠らないと明日に差し障るだろう。
消すよ、と言ったら左手がひらひらと動いたのでそのまま部屋の電気を落とした。
真っ暗になるわけではない。月の明かりか、民家の光が漏れて入って来ているのか判らないけれど、ぼんやりと浮かび上がる僕等の姿。
ベッドに潜りこみながら、それでもまだ目が冴えている僕は少しくらいいいだろうと会話を続ける。

「あー、絶対に発売日に買うんだと思ってたんだけど」
「後悔してるのか?」
「まさか。驚いてるだけさ」
「ほう」
「好きな作家の新刊より優先する物が自分に出来たってことが」
「成程」

承太郎の相槌は短い。もしかしたらもう眠いのだろうかと思った矢先に、暗闇の中で火がともった。
少し驚いて見れば、じんわり浮かぶ煙草の煙。ちらちらと赤く光る穂先。
なんだ、まだまだ眠るつもりなんてないじゃないか。そんな僕の目線に気がついたのか、無言で煙草を振られた。
これを吸い終わったら寝ると言うことだろうか。よくわからないが、そういう解釈にしておこう。

「日本に帰ったら真っ先に買おう」
「空港にあればいいがな」
「どうだろう。マイナーだからなあ。帰るころには新刊扱いじゃあくなってるだろうし。微妙かも」
「ふ。帰り道で読めなくて残念だな」
「いや。そんな勿体無いことはしないさ」
「勿体無い?」
「そう。勿体無い」
「何がだ。時間がか?」
「そうじゃなくてさ」

思いのほか食いつきがよかった。僕としてはそんなに変なことを言ったつもりは無かったのだが。どうなんだろう。
勿体無いと思うことは無いのだろうか。新しい物を買った時、大切な何かを貰った時、使うのが勿体無くてしまいこんでしまうようなこと。
厳密には少し違うが、本を買った時にも似たような気持ちに僕はなる。今すぐ読みたいけれど、読んでしまうのが勿体無いような。
そうやって最初の一ページ、表紙を初めてめくるまでのあの感覚。
どうやって説明しようと思いながら、僕は着地点も見付けずにいきあたりばったりに話す。
擦り切れたサリーが毛布代わり。風は頭上を掠めていくだけで、あまり僕等には届かない。

「こう、帰り道ということはDIOを倒しているわけだ。僕等は」
「そういうことになるな」
「それで、この旅の思い出とかを話しながら日本に帰って」
「ああ」
「ポルナレフやアヴドゥルさんとは飛行機でお別れかな。ジョースターさんはホリィさんの様子を見に日本まで一緒に来るだろう?」
「ああ。確実にあのじじいは来る」
「それで、どこか最寄りの本屋で本を買うんだ」
「それで読むんだろう?」
「いいや。勿体無いから」
「さっきからそればかりだな」
「そうだね」

まだ旅は途中もいいところなのに、もう終わった時の話をするだなんて、夢を見過ぎだろうか。寝てもいないのに?
自分の頭で浮かんだジョークはあまりにも寒かったのですぐに打ち消した。危ない危ない。
でも、そう、僕は夢想する。この旅が終わったら。無事にDIOを倒して、そうしたら、そのあと。
平凡な日々が僕を待っていることは間違いない。子供は悪の帝王を倒すヒーローを夢想するものだけれど、ヒーローになった僕等は現実に戻りたがる。
現実の世界で、ああ、ハードカバーはやっぱり値段が高いなあなんて学生らしいことを言いながら。

「それで、本の中身が気になりながら、それでも君と他愛無い話をしながらあの街に帰るのさ」
「別に読んだっていいんだぜ」
「僕が君と喋りたいんだよ。それで、家に帰ってただいまを言う。両親は激怒してるだろう」
「ああ。そう言えばお前は何も言わずに来てるんだったな」
「いまじゃ僕は、君より不良の親不孝者のレッテルを貼られていそうだ。それで、一通り叱られた後、旅装を解く」
「たいして荷物もねぇけどな。帰りにインド土産でも買っていくか?お前の親に」
「それもいいね。そう、そうやって、お土産を並べたり写真を飾ったりして、部屋を整えて深く眠る」
「寝るのか」
「そりゃ、絶対疲れてるだろうからね」
「間違いない」

何か面白かったのか、彼は小さく笑った。あんまりにも現実的すぎたからだろうか。でも絶対そうだ。眠るにきまってる。
彼ぐらいにタフな人間だったら、そのまま本を読んで眠るのだろうか。いや、違った、彼はもう帰り道で読んでしまうんだろう。
なんていうか、そう、だから、僕はこういう些細な所で彼との違いを感じる。いつだって。
正直な話、本当に正直な話、僕は憧れているんだろうなと思う。彼のような人間になりたかったといつだって心のどこかで思っている。
きっと僕が僕を叩きのめして粘土のようにぐちゃぐちゃになったら、次に僕を作り直す人に、彼のような形にしてくれと頼むだろう。
自分の事が嫌いだとか、そういう単純な問題じゃあない。それかもっと単純に、僕のヒーローが彼というだけなのかも。

「そうして昼ごろ置きだして、着替えて、ゆっくりと御飯を食べて」
「ああ」
「部屋に戻って、そこで本を開くのさ。丸一日ゆっくりと、ベッドの上で」
「やっとか」
「やっとさ。そして、これがベストのタイミングだ。買ってからずっと、読みたくてそわそわしていた僕の期待値が最高潮」
「どれだけマゾなんだお前は」

溜息と同時に煙草の煙が広がる。一瞬で溶ける。僕は吸ったことが無いから判らないが、横になりながら吸って喉につまらないだろうか。
ぼんやりとうかぶ細い白いシルエット。確実に短くなったそれに、話の終わりが近いことを知った。まあ、終わらせるのは僕な訳だが。
さて、落ちも何も考えていないわけだが、どうしようか。考えるのも面倒なのでこのまま続けることにしたが、僕も思いのほか眠いのかもしれない。
明日どうなるかは判らないが、それよりも先の未来を話す。目の前に浮かぶかのように判る自分の姿。

「読みたくて読みたくて逸る気持ちを抑えてゆっくりページをめくる。そもそも読書速度そんなに早くないしね」
「意外だな」
「君は早そうだ」
「どうだかな。比べたこともねぇから判らんが」
「確かに。まぁそれで、焦る気持ちを堪えてじっくりゆっくり読んで、読了」
「普通だな」
「そうだね、そうしたらそのあと、君に電話をかけようかな」
「さて、俺が家に居ればいいがな」
「君のことだから少なくとも一日はホリィさんを気遣って家にいるだろう。お見通しだよ」
「どうだか」

確実だ。確実に絶対にそうだ。なんだかんだ真っ直ぐに母親思いの君ならそうする。間違いない。
僕の空想に、彼が思いのほか律義に返答を返してくれていることに気がついた。もしかしたら彼も楽しんでいるのか。
一方的だと思っていたが、意外や意外。相互通信していたらしい。こういうことになかなか気がつけないのが、卑屈の所以だ。
それは、実に愉快な発見だ。気分が浮上する。意識も浮上する。ああ、やっぱり眠いんだな。認めよう。
本当に他愛も無い話だったけれど、とても愉快な、とっておきの物語かのように僕は話す。

「そうだな、多分僕はこう言う。
『やあ承太郎、ホリィさんの調子はどうかな。お見まいにいってもよくなったら教えてくれ。
 ところであの本だけれど、いつも通り怠惰で温くて非常に君の嫌いそうな展開だったよ』」
「わざわざ報告するのか」
「ああ」
「それは聞かなきゃいけねぇな」
「うん。それで満足して、もう一回寝る」
「寝てばっかじゃねぇか」
「そりゃ、疲れているからね」
「成程。違いない」

じゅ、という小さな音が響く。彼が右手で煙草の火をもみ消した音。
熱くないのかい?と聞けば熱いさ、と返された。そうだろうと笑う。やっぱり君もマゾじゃないかと言えばお前と一緒にするなだと。酷いな。
さあ、お喋りの時間は終わりだ。眠ろう。明日に備えて眠ろう。
もしかしたらこの夜に襲撃されるかもしれないが、やめてくれると助かるなあとのんびり思う。
せっかくいい気分なのだ。いい気分で目覚めたいと思うのは自然なことだろう。
おやすみ、とつぶやいて、毛布とは絶対に呼びたくないサリーを引っ張り上げた。
目を閉じて、そういえば、と思う。言い忘れていた。おやすみの後に話すのはマナー違反だろうか。少しくらいは許してもらえるかな。
承太郎、と声をかければなんだ、と問うてくる声。

「日本に帰ったら君の好きな本を教えてくれ」
「お前の好みかは保証しねぇぞ」
「構わないよ。それに、多分大丈夫じゃないかな。僕たち、なんだかんだ似ているらしいから」
「そうか。それなら安心だ」



***



平凡な日々こそが幸せなのだと気がついた
隣に誰かがいることが最大の幸福なのだと気がついた

叶うことの無い絶対少数の最大幸福

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