And But Cause I love you


香ばしい繭

また明日じゃ間に合わない



***



「また来たのか」
「またってなんなんスか!まだ3回目っすよ?!しかも今週は初!」
「火曜日だが」
「つまり、月曜に来るのを我慢したっつーことで」
「我慢して来た、の間違いじゃねぇのか」
「それじゃ嫌々来てるみたいじゃないですか」
「そう言った」
「そんな筈ないじゃないですか!」

ていうか、また来ますって言ったじゃないですか!と言えば、そうか、とだけ返された。そのまま降りる沈黙。
放課後、ウキウキとドキドキと影を射す不安を抱えて訪れた承太郎さんのいるホテル。少し毛羽だった絨毯が敷かれた赤い廊下。立ち尽くす俺。開けたドアに寄り掛かったまま黙る彼。
ええと、これはどうしようか。

「……入らないのか?」
「え?!ああ、ハイ、えっと、お邪魔します!」
「どうぞ」

このやり取りの間、彼の表情はぴくりとも動かなかった。ううむ、大人の余裕ってヤツなんだろうか。
いや、なんか違う気がする。
俺の周りの大人達はみんなもっと、こう、なんていうか、普通だ。ああ、こういうと承太郎さんが普通じゃないみたいなんだけど、ええと、ああ、もう!うまく言えない!!
なんつーのか、張り巡らされているのだ。糸が。
触れたらこっちの手が切れてしまうんじゃないか、っていう感じの。
掴みどころがないっていうか。でもむやみやたらに攻撃するんじゃなくて、糸だからあったかい所もあって、って、何の話だよ。
テンパる俺は、それでも彼の部屋に入って、前回と同じように横長のソファの隣の床へ鞄を置く。スカスカの鞄がたてる、ぽす、という情けない音。

「特に何もないぞ」
「いやいやいや、そんなことないっす、ほんと、お構いなく!」

彼がこの町に来て、もう1週間が過ぎた……筈だ。多分。うん、調度それくらい。
無機質な部屋も、少し彼の空気を帯びる。どれだけ荷物が少なくても、何もないなんてことはない。
コートかけにある見慣れた白いコートと帽子。思いの外雑然としたデスク。積み上がる専門書と書きかけの原稿。写真たて。
人が、ここで生活しているということ。
生活臭というと所帯臭いかもしれないけど、俺はそれが結構好きだ。
人の家にはそれぞれの匂いがあって、それぞれの温もりを帯びている。
一つだけある大きな窓。開いたカーテンと、差し込む夕方の光と影。日が沈む一瞬の虹色が空の端に浮かんでいた。
ぐるりと見渡して、前回と殆ど変わらないことに安心して、何故安心したのかも判らない俺は、そのままソファに座る。
重量のある、ぼふん、という音。
ドアに鍵をかけてきた承太郎さんは台所のコーヒーメーカーに向かったらしい。コポコポと、ふおふおと。

「あの、今更っスけど、迷惑でしたか。邪魔なら俺」
「問題ない」
「…それならいいんスけど、でもほら、承太郎さん入口で色々と言ってたんで、いや、文句を言うつもりじゃないんですよ、そうじゃなくって、ほら、」
「ああ、お前は入るのを渋っていたようだったから」
「ええええ?!俺がいつ?!」
「さっき」
「そりゃないっすよ!!てか、俺、絶対に承太郎さんが嫌がってるんだと思いましたよ!!」
「なかなか入って来なかったろう」

ドアを開けたまま会話していた理由はこれだったらしい。
もしかしてドアによっかかってたのって、俺に道を開けてたの?
嘘だろ。あれ、入っていいっていう合図だったのか。せめていらっしゃいの一言でもあっていいと思う。判りにくい!

「とりあえず、そんなこと無いですから!俺めっちゃ来たくて来たんすよ!」
「そうか」

彼は俺に背中を向けたまま、俺もソファから立ち上がらずに、背中合わせの会話。これがそのまま、二人の距離感な気がする。
うう、自分で考えて淋しくなってきた。
『何故来るんだ』って聞かれないのはありがたいけど。だって、なぁ。まぁ、うん、置いとこう。
彼から俺へ。理由を知りたいと思わない程度の興味。ううん、やっぱ、なんか、淋しいなぁ。

「ホントのホントに大丈夫なんすね?いいんですね?邪魔じゃないんですね?ファイナルアンサー?」
「帰るならこれを処理してからにしろ」

いつの間にか隣に立っていたことに驚いて、うひょおわぁ!みたいな変な悲鳴が出た。うお、かっこわりぃ。俺。
存在感の塊のような人が気配を消さないでほしい。マジで心臓に悪い。
湯気を立てるマグカップに並々と注がれた黒い液体。揺れる波紋。間違いようのない、色がついたような匂い。
自分の分のコーヒーを持って、彼はデスクの椅子に腰掛けた。くるりと回転させてこちらを向く。
やっぱり変わらぬ仏頂面。

「判らなかったんでな。適当だ。」
「?はぁ。」

いれてもらったのにすぐに飲まないのは失礼かと思って口に運ぶ。立ち上る湯気はそれが煎れたてできたてほかほかであることを示している訳で、俺は覚悟を決めた。
男、仗助、参る!皆の者俺に続け!

「ん、え、あれ?」
「どうした」

決めた覚悟が拍子抜け。行き場をなくして俺の中で転ぶ。いぶかしげにキョロキョロと。浮かぶ疑問符。隊長、目標を見失いました!
そんな筈はない。隊長は間違いなど犯さない。急いでもう一口。慌てたせいか熱い。やべ、舌、火傷したかも。自分じゃ治せねぇのに。だけど。

「……甘い」
「ああ、やっぱ入れすぎたか」
「いや、いや、旨いっす!お世辞じゃなくて!今まで飲んだ中で一番ってくらい旨いっすけど、あれ?」
「どうした」
「承太郎さん、砂糖いれませんよね?」
「だからそれを飲んでから帰れと言ったんだ」

俺はそんな甘いモンは飲めねぇ。
そう続けた年上の甥に、言外に子供だと言われた気がして、少し苛立ち。
いや、ちげぇ、いらついてなんていない、怒り?ムカつき?ハズイ?ああ、どれも違う。違うけど俺にはピッタリの言葉が判らない。
ああ、くそ、国語の授業ちゃんと聞いときゃよかった!
そんな、名前の付けられない何かΘさんと一緒に、驚き、と、喜び、と、そんな筈がない、っていう否定。我ながら、一瞬でよくもまぁここまでぐちゃぐちゃ考えるもんだ。
いっそ、逆に頭いいんじゃねぇか。俺。

「でも俺、砂糖派なんて言いましたっけ?」
「この前来た時に」
「え、俺言ってませんよ!!言わないように気をつけたんすから!!」
「一口飲んで、『承太郎さんは砂糖いれないんすか』。そのあとも一口飲む度に一瞬表情固めるわ、飲む前に覚悟決めた目をするわ」
「ぐ、俺そんなだったんすか」
「正直、笑いを堪えていた」
「ひっでぇ!!そりゃひでぇよ!!」
「そうか?」
「気付いてたなら言って下さい!」
「気付かれたくなかったから言わなかったんだろう」

そりゃそうだ。だけど結局ばれてちゃ意味ないんじゃないか。
湯気をたてるコーヒー。同じ黒でも、溶け込んだ白。
ただまぁ、あのでかい図体で、ちまちま砂糖をいれてくれたのかと思うとそれはそれでほほえましい。かなぁ。
思わず両手で握りこむ白いマグカップ。厚い陶器を通して、じんわりと伝わる熱。あったけぇ。もう一口。旨い。

「うう、そんなら最初から言っておきゃよかったってことかよ……。そしたら俺は前回苦いコーヒーじゃなくて旨いコーヒーを飲めたのか……」
「苦いコーヒーを飲まなくて済んだとは思うが、甘いコーヒーは飲めなかったぞ」
「え?」
「砂糖なんて買ってなかったからな」
「え、これ、備え付けのヤツじゃ」
「日本茶しか置いてなかった」

くい、と親指で指された先。あからさまに使われた様子の無い急須と茶碗。パックの緑茶と煎茶が見える。
成る程、こりゃ砂糖なんてついてないな。買ってくるしかないわけだ。
余りにも判りやすかったのでふむふむと頭を動かす。動かしたら、今まで停止していた頭が働き始めた。え、彼はなんて言ったっけ?

「わざわざ買ってきてくれたんすか」
「ついでに他の買い物もしてる」
「砂糖がついでじゃなかったんすね」
「一緒だろう。結果的に」

過程が大違い過ぎる、って言葉はギリギリで飲み込んだ。全然違う。すっげぇ違う。
だって俺、今週来たのは初めてだけど、この前に来たの日曜だぜ。二日前。そりゃ、また来たのかって、言われる、よなぁ。
でも、それじゃあ、あのあとすぐに買いに行ってくれたのか。俺がいつ来てもいいように?
また来たのか、って言われるくらいに早く来た俺よりも早く?

「でも何で、そんな来るかも判らないのに」
「また来る、と言ったのはお前だろう」

まぁ、ただの社交辞令だと思ったが、念のためな。
コーヒーを口に運びながら淡々と説明する彼。成る程。判りやすい。ふむふむと頷く俺。
物凄いデジャヴってか、そっくり同じことさっきやったよな?ああ、頭が回転し始める感覚。ちょっと待てよちょっと待て。

「なんでそこまでしてくれるんすか?」
「何故、ってのは?」
「だって、仕事してる所に来て邪魔じゃないんすか?早く帰って欲しいんじゃないすか?そんな居心地よくしちゃったら俺また来ちゃいますよ?」
「ラ・ロシュフコォって知ってるか」

割と必死に問い掛けたつもりだったけれど、あっさりとかわされて意味の判らない問いを投げられた。うう、せつねぇ。
承太郎さんの後ろ。一つだけある大きな窓。日は完全に沈んで紺一色。星が見えてきた。ああ、明日も晴れかなぁ。
って、うお、しまった。判らない問いに現実逃避。この癖治さねぇと。なんだったっけ。ラ……シュフレ…?

「食い物ですか」
「フランス貴族だ。俺も前に……友人に教わったんだがな」

まぁ100%違うだろうと思って投げた答えは、案の定違って、そしてスルーされた。クール過ぎる。この人。

「『しばしば我々は、我々のもっとも美しい行為をも恥ずかしく思うであろう、それを生み出したすべての動機をひとにみられたならば』」
「へぇ、頭いい人なんすね。そんなのいちいち覚えてるなんて」
「……頭が良いかは置いておく。ただ、愛国心が強い奴だったからな。泣きながら言っていた。」
「……え、でも、このタイミングでその話って」

無表情。変わらない。いつもどおりの顔。だけど、錯覚じゃないよな?
笑ってる。
微かに、上から目線というか、馬鹿にするように、というか、いや、違う。全然違う。そんなんじゃない。ああ、カモンナイスジャパニーズワード!プリーズ!
まさかこんな呪文が効いた訳は無いのだけれど、俺は理解する。ありがとよ俺の頭。
これは、あれだ、何かを企んでいる顔だ。
しかも、どっちかってーと、成功間近。

「じょ、承太郎、さ…」
「コーヒーもう一杯いれてやろうか」
「ちょ、待って下さいマジで!承太郎さん、裏で何を考えてるんすか!
  ていうか、もしかしてそのフランス人の友人が泣いてた理由って、なんかに感動したとかその言葉が好きだからとかじゃなくて、原因って、アンタですか?!
  その人に何したんすか?!そして何で俺にコーヒーいれてるんすか?!そんな、なんか、え、え、言えないような動機があるんすか?!何を考えてんですか?!」
「………」
「黙んないで下さいよぉ!」
「冗談だ」

俺のかなり必死な質問は、今度はかわされずにしっかりと答えを返された。
ただ、その答えの内容がかわされるのと同じくらい酷かったってだけで。
冗談って!冗談って!!
文句を言おうとして気がつく。彼のコーヒーカップが少し、本当に少し揺れている。微かに見える水面に波紋。
驚いて、しっかりと顔を見る。黙って俯くその顔。影になって見にくいけれど、錯覚じゃない。錯覚じゃないぞ。本当に。
笑ってる。
かすかに、だけど馬鹿にする風でもなく上からでもなく、普通に、普通に笑っている。
くすくすと。吐息だけこぼすように。
俺の周りの普通の大人達と同じように。
呆気に取られて文句が消えた。言おうとした口の形のまま、ポカンと開けて。

「……いや、わりぃな、お前の反応が面白かったもんで」
「面白かったって……」
「つい」
「つい、じゃないっすよ、つい、じゃ!マジでビビったじゃないですか!!!」
「これで説明したぞ」
「いや、待って下さい話ついていけないっす!俺承太郎さんみたいに頭よくないんで、一からお願いします。」
「『どうして砂糖を買ってきたのか』」
「え、今のそれの説明だったんすか」
「アンサー、お前の反応が面白かったもんで」
「え、ええええええ?!」
「つい」
「つい買っちゃったんですか!ついでじゃなくて!!」

ぐったり。一気に叫び過ぎて疲れた。俺、今日ここに来てから叫んでばっかな気がする。
あああ、だけど判った。いやと言う程判った。判りやすすぎた。だけどもう頷く元気は残っていない。
働かない頭でも判るくらいに簡単なことだった。うう、もう。

「砂糖いれなかった俺の反応が面白かったから、こっそりいれたらどういう反応するか気になったんですね」
「気になったことは確かめないと気が済まないタチでな」
「なんか、すっげえ今俺、虚しいんすけど……」
「動機なんざ、知らない方がいいってことだ」

涼しい顔でまた一口。コーヒーを飲む。釣られておれも一口。段々少なくなってきた。傾ければ底が見える。青で焼き付けたメーカーのロゴ。多分ブランド品なんだろう。
知らねぇけど。

「お前の驚く顔が見たかった。だから買った。単純だろう。」
「ええ、簡単です。目茶苦茶判りやすいです。誕生日プレゼントとかの時によく行われる手だと思います。でもそれって、俺が単純だって言ってるのと同じですよね!」
「今まで俺の周りにはあまりいなくてな」
「だあああ!どーせあなたの周りは皆頭良かったんでしょーよ!!そんて俺は馬鹿ですよ!!」
「馬鹿と単純は違うと思うが」

こっちからしてみりゃ一緒だ。つーか、同じこと言われてるとしか思えない。くそぉ!
だけど、なんか言い返そうにも特に思いつかない。馬鹿だし。
疑問は全て氷解した。ううう。

「そんな理由だったなんて……」
「どんな理由だと思ったんだ」
「判らなかったから聞いたんです」
「そうか。解決したならよかったな」
「なんか無いんすか?!他に!!」
「何かあるのか」
「……う、そりゃ、そう、えっと、……なんかあります?」
「俺に聞かれてもな」
「うぐ、そんじゃ、えっと逆に、俺に聞きたい事とか」
「例えば」
「え?!例えば?!えっとえっと、け、血液型とか、誕生日とか、星座とか?!」
「お前のことを調べた時に調査済みだ。あと、誕生日が判れば星座は判る」
「ええええっと、そしたら、あ、俺がなんでこんなに頻繁に来るのか、とか!!」

予想外。しん、という沈黙。あれ、俺、そんな変なこといったっけ、じゃない、違う、馬鹿、なんで墓穴掘ってるんだよ?!やべぇやべぇやべぇやべぇ。
頼む、頼むから聞かないでくれよ。だって、聞かれたら、俺、

「……正直、」
「はははははい!」
「それは疑問だった」
「そ、そーっすか!そーだったんすか!!いやぁ、成る程!疑問だった!!………疑問、だった、ん、すか?」
「……ジジイのことについて聞きに来てんのか、とも思ったがそんな様子も無い。かといって、こんなつまらない場所に遊び盛りのお前が来る理由も無い。
  お前なりにこの血縁関係に気を使ってるのかと思ってたんだが」
「へ?気を使う?」
「親戚付き合いってヤツだ……。だがその反応、違うのか?」
「全然考えてなかったっす」

本当に全然考えてなかったから普通に否定したら、珍しく驚いた顔をされた。驚いたというよりは、拍子抜けって感じなのかな。
承太郎さんの周りに張り巡らされた糸が、一本だけプチン。凄く大事な紐だと思ってたのに、あ、それ無くても全然平気でーす、みたいな。命綱かと思ったけど、切っても落ちませーん、みたいな。
さすがに言い過ぎだろうか。

「何も、考えてなかったのか?」
「そりゃ、父さん……いや、父さんって言うのにも違和感あるんすけど、その人に関しては一言ありますよ。いや、逆に何も無いのかな?今更っつーか。」
「………」
「でもそれ承太郎さん関係無いっす。いや、そりゃ、そもそもその件がなけりゃこうして会うこともなかった訳なんで、関係無いってのもおかしいのか?ああ、でもそうじゃなくて」
「じゃあ、何故此処に?」
「うぐ」

承太郎さんの目は本当に真っ直ぐに問い掛けてきていた。
気になることは確かめないと気が済まないタチ。
さっき自分で言っていた。成る程、今、我が身をもって思いしりました。
うああ、聞かれてしまった。尋ねられてしまった。しかも自分で蒔いた種だ。答えない訳にもいかない。ああ、聞かれたら俺、
聞かれても俺、

「判んないっすよ」
「…は?」
「判んないっす。なんでこんな頻繁に来るのか、来たいのか、自分でも判りません」

驚いた顔、本日二度目。切れた糸、二本目。
判らない問題があると現実逃避。
判ってんだよ、直した方がいいことは判ってんだけどさぁ。考えたって判らないモンは判らないだろ。
彼は口元に運んだコーヒーをなかなか飲もうとしない。完全に固まっている。スタプラを使わなくても俺は時を止められたらしい。
いやはや、1秒という時間は断然短いと思ってたんだけど。長いな。
そんな長い一秒が過ぎて、結局彼はコーヒーを飲む事なくカップを降ろした。大きく溜息。

「理由は無いのか」
「ありますよ。来たいから来たんです。単純でしょう?」
「ああ、判りやすい。」
「……って、これも結局、俺が単純だって言ってるようなモンか……」
「そうだな。」
「フォローして下さいよ」
「お前の単純さをなめていたな」
「フォローの方向が違う!」
「いや、俺が気を回しすぎたのか」

柄にもねぇ、そう呟いて皮肉げに笑った彼は恐ろしくかっこよかった。バッサリと、張り巡らされた糸が、彼自信の手で全て切り落とされたみてぇ。それくらいの鋭さで笑う。
声を失った俺には気付かずに、残ったコーヒーを一息に飲み干して立ち上がる。その時にはいつもの承太郎さんに戻っていた。

「そろそろ帰らなくて平気なのか」
「え?あ!!」

気がつけば窓の外は真っ暗。別に小さいガキじゃないんだから、夜道がどうこうとかは無いが、夕食に遅れたら確実にあの母親はキレる。正直それは勘弁だ。

「じゃあ俺、今日はこれで失礼します!」
「……今日“は”?」
「う、えーっと、また来てもいいっすか」
「……動機なんて知らない方が良いって言ったのは俺だったか」

少し強めに頭に手を置かれた。おいおい、本当にガキ扱いかよ!ていうか、マジ、リーゼント崩れたら俺自分の行動にも責任取れねぇぞ!!
手はすぐに離れる。なんとなく名残惜しいような、気がする。惜しくなる理由も判らないけど。
ああ、そう、さっきの名前が判らないΘさんと同じ感覚だ。本当、なんなんだろうな、これ。

「また来い」
「いいんすか?!」
「余ってるんだよ」
「あまる?」
「砂糖が」

捨てるのは勿体ねぇ。
そう続けた彼に、勿体無いって言葉似合わねぇなぁ、なんてズレたことを考えながら、俺は確かに嬉しかった。
また来ていいんだ。俺は。この暖かい部屋に。

「じゃあ、遠慮なく」
「ああ。夜道に気をつけろよ<」
「あんまガキ扱いしないで下さい」
「砂糖2個は十分ガキだ」

2個も入ってたのか。あれ。俺も今まで、見栄張って、ブラックか、せいぜい半個しか入れてなかったからなぁ。
旨いと思ったのは、なんてことはない、今までに飲んだのが苦すぎたということらしい。
手に持ったマグカップ。中味はもう冷めた。残り一口。一息に飲み干す。
溶け残って下に溜まった砂糖。最後の一口は今までで一番甘かった。

「……三個もあり、か……?」
「どうした」
「なんでもないっす!」

前にいた承太郎さんには聞こえなかったらしい。聞こえなくてよかった。
二個で十分。三個も使ってたらあっという間に無くなっちまう。
そうしたら、この部屋に来る口実も消える訳で。

「考えごとか?」
「ええ。承太郎さん」
「なんだ」
「今度はミルクもお願いします」
「……調子にのるな」

苦笑して軽く小突いてきたその姿は、うん、他の人と変わらない。
普通じゃない彼のことをもっと知りたいし、彼の普通な面も知りたい。
彼の周りに張り巡らされた糸を切りたいし、背中を向けあう距離から近づきたい。そうだなぁ、相手のコーヒーの香りが届くくらい、まで、とか。
俺も結構、承太郎さんに負けず劣らず、探求心ありありなのかも。っていうか、あれ?
動機、判明してるじゃないか。
何だ、この部屋に来る訳を、俺はちゃんと知ってたのか。
やっぱ俺、頭いいかも
承太郎さんに話そうかと考えて一瞬で却下。動機なんて知らないほうがいいってね。
それに、判った問題についてうだうだ考えるのも面倒くさい。

「それじゃあ、お邪魔しました」
「ああ」

それよりも考えるべき問題があるだろう。
名前のつけられない気持ちΘの正体とか。
ああ、そうだ、それよりも、
あの部屋の砂糖が尽きた時、どんな理由で遊びにいこうか。
現実逃避しないで考えよう。そうだ、とりあえずはこの帰り道の間に。
そして俺は、毛羽だった赤い廊下を越えて、満天の星空の下に踏み出す。一歩。







さようならばいばいいつの日か
でもとりあえず、また明日
長い長い一秒を越えてお会いしましょう

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