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大学生パロディエパン

さりげなさを装って立ち上がったディエゴは、周囲の視線が自分へ突き刺さるように感じた。それはただの被害妄想のようなもので、実際は誰も彼に注目などしていないことを、彼は勿論理解している。理解しているから実に苦々しい気持ちになる。なぜこの自分が、わざわざ、さりげなさを「装」わなければならないのか。それはただ緊張しているのだということの証明に他ならない。それを認めることが彼にとっては実に悔しく感ぜられた。なぜ。この自分が。けれど彼のその内心とは裏腹に、彼はいたって涼しげな顔で立ち上がり、椅子をひき、大教室の中心で振り返った。その視線の先には予想していた人物がのんびりとノートを片付けており、いやおうにも彼の表情はわずかに硬くなる。
それすらもただひたすら悔しかった。
悔しいと感じているそれを認めてしまったが最後、彼はもう自身がどうしようもないことを悟らずにはいられないので、彼はひたすら平静を装う。自分は、いたって、平生どおりなのだと、それだけを自分で意識する。ことさらに靴音を響かせるでもなく、忍び足だなどとみっともないことをする筈もなく、彼は視線の先の人物へまっすぐに近づいていった。

「ホットパンツ」
「ん、ああ。ディエゴ。どうした」
「今週の日曜、空いてるか」

そこまで会話したところで、ディエゴはふと我に返って内腑が冷え込むのを感じた。彼は、ホットパンツが、空いていないことをまったく想定していなかったのだ。「すまない。その日にはもう予定があるんだ」というそんなありきたりな返事をひとつも考慮に入れていなかったのである。
それはなんと楽天的なと、彼の内心の動揺を観測する者がいたら言うかもしれない。けれど彼を弁護するならば、彼の人生において、そのような事を考慮する必要は無かったのだ。ただの一度として。彼はいつだって女から誘われる側だったし、彼がほかの誰かに用事がある時は有無を言わせず言うことを聞かせていた。相手も、喜んで従うことばかりだった。彼に拒絶されたとしてもそれは彼にとってどうでもいい相手のどうでもいい返答にしかなりえなかった。その相手の存在が、意識から消えるだけだった。

だから彼は、デートの誘いを断られるという経験が今まで一度も無かった。

そのこと自体を恥じたわけでも恐れたわけでもない。ディエゴにとってなによりも衝撃的だったのは、土壇場になってから気がついたその事実が、彼を大いに恐ろしくさせた、というその一点のみだった。『断られることを恐れる』というその至極一般的な感性を、彼はホットパンツ相手に初めて感じたのだった。誰かの何気ない一言を恐れるだなんてことが、彼の人生において認められるはずも無かった。
けれどその人生を揺さぶる衝撃は、彼のかすかにしかめられた眉にしか現れなかった。盛大に感情を表現するような無様な真似をしないで済んだことに彼は微かに矜持を取り戻す。そして、そのような葛藤など知る由もなく、あっさりとホットパンツはこたえた。

「日曜か?ああ、空いている」
「そうか」

心配は杞憂に終わったが、実際の用件はここからだった。まさかここまで面倒なものだったとは。ディエゴにとってそれはいっそ清清しいほど新しい発見だった。講義が被れば会話もする、椅子が空いていなければ隣に座りもする、腹が空いていれば共にカフェテリアに並びもする。そんな日常の些細な流れを、何も無いところから生み出すことがこんなにも面倒なことだったとは。

「お前が前に行きたいと言っていた映画のチケット、偶然手に入ったんだが、行くか」
「本当か?それは、是非」
「ふん。それじゃあ日曜日。場所と時間は今度メールする」
「チケットはもうあるんだな?」
「ああ」
「それじゃあ、昼は私が奢ろう。待ち合わせは昼ごろにしてくれ」
「余計な気を回すな」

昼食すら奢らせるつもりのない、この女はデートだということをまったく理解していないらしい。

その反応は彼女の性格を思えば実に彼女らしいものであり、不満を感じると同時に安心感が去来する胸のうちをディエゴは不思議な心持で認識する。冷え込んだ心臓はすっかりいつもどおりの脈を取り戻しており、小さな不満と認めたくない安堵とが静かに居座っていた。
勘違いなどではない視線を感じてディエゴはちらりとそちらを見る。その先にいる二人組を認めてため息をついた。どこからかはわからないがどうやら見られていたらしい。ジャイロが浮かべていた楽しそうな笑みと、実に不機嫌そうなジョニィのあからさまな表情が彼の中で交差する。きっとジャイロはこの後ここぞとばかりに話を聞きに来るのだろうし、ジョニィはホットパンツのもとへ聞きに行くのだろう。その様子があまりにも安易に想像できてひとつ瞬きをした。
わかっていた。ディエゴとホットパンツが受けているこの講義の、次の授業をあの二人組が受けていることなど。目撃され、面倒なことになると。 けれど、仕方が無かったのである。彼も本当は、ホットパンツと偶然にすれ違ったときにでも切り出そうとしていた。何気なく、“偶然いて丁度都合がよかったから話しかける”、そういう体でいようと思っていた。彼のプライドを満足させるにはそれが一番よかったはずだった。しかし、いつでも見つかるはずの彼女の姿が、探せば探すほど見つからなかった。けれど、呼び出す気にもなれなかった。メールで済ませるつもりにもなれなかった。必ず一緒になるこの授業まで、三日間。ここが彼の自意識との最後の妥協点だった。

「まぁいい。面倒だ。今決める。11時にサンタマリア聖堂前」
「ふむ。了解した」
「それじゃあな」
「ああ、ディエゴ」
「なんだ」
「いや、誘ってくれてありがとう。楽しみにしている」

その他意の無い笑顔を見て、彼はため息をついた。そのため息ひとつで、今までの葛藤すべてを流すことにした。ホットパンツのその言葉には応えずに彼は次の教室へと向かう。頭の中で一日のスケジュールを組み替えながら。
今日は帰りにチケットを買おう。二枚。

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