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叔父甥

翻ったその紺地が随分と軽やかに見えて、思わず仗助は視線で追った。重い筈のその色がふわりと風に浮かぶように見えたのが意外だった。
その数瞬後に、自らの姿が傍からどう見えているのか、我に返って慌てて隣を振り仰ぐ。そこには無表情で仗助を見つめる承太郎がいた。その瞳からは何も読みとれない。春の柔らかい風はいたずらのようにふわふわと服の裾や前髪を揺らしていく。承太郎の眼にその柔らかさの欠片も見つからずに、仗助はただ慌てふためくだけだった。

「あっ!あの、承太郎さん!別にそんなんじゃないっすからね!!」
「まだ何も言っていないが」
「あ、いや、それはその」
「慌てることもねぇだろう。お前も健全な高校生だってだけだ」
「承太郎さんもそうだったんすか?」
「群がって来る女どもをわざわざ視界に収めようとは思わなかった」

さっきのは一般論だ。そう言葉を〆た承太郎に、仗助は隠れて溜息をついた。参考にしようとした自分が間違っていた。
承太郎が仗助と同じ高校生であった時分があることは勿論承知しているが、それにしたって、『同じ』と表現することに仗助は躊躇いを覚えざるを得ない。いや、この人と『同じ』になれる人物だなんてこの世の中にいるのだろうか。世界に一つだけのなんちゃらとはいうが、似た者同士は存在するだろう。仗助の頭に、承太郎と似た人物などというものは一つとして想像がつかなかった。いくつか高校当時の話を聞いたことがあるが、何もかもが規格外である。女子がキャーキャー騒ぐのだって当然。普通なら天狗になりそうなものだけれど、本気で怒ると言うのだから恐れ入る。
別に彼に煩悩が無いと言う訳でも無い。酒と煙草が好きだったと言うが、いやはや、その二つは煩悩を判り易く体現したものではないか。ただ、どうも人間として汚れている場所が承太郎には見つからない。人間らしい泥臭さが見当たらないのだ。何もかもに対してスマートすぎる。そんなことを言えば笑われるか呆れられるか、十中八九後者であることは判っていたので、今まで仗助は口に出したことは無かった。そしてきっとこれからも無いだろう。良くも悪くも現代を生きる彼は、こんな時に下らない話題で誤魔化すことばかり覚えた。

「でも承太郎さんだって、セーラー服着てる女子にぐっときたことくらいあるでしょ?」
「覚えがねぇな」
「またまたぁ」
「日本に帰って来て久々に女がセーラーを着てるのを見て驚きはしたがな」
「へ?」
「海外じゃ着てるのは男ばっかだ」

それはもしかしなくても本物の海兵さんなのでは?そう尋ねれば特に感慨も無く肯定を返されたので、もう幾度目か判らない溜息を仗助は吐く。その様子に気が付いていないのか、承太郎は淡々と言葉を続けた。観光が盛んな土地の海じゃあ船乗りはどいつもこいつもセーラーだ。あとは研究のためだな。幾度かスピードワゴン財団の伝手を使って軍艦にも乗せてもらったことがある。
まるで無機質な数字を読み上げるかのように淡々と話されるその内容はやはり仗助からしてみれば規格外の遠い世界でのお話だ。自分が大きくなってこのようになれるとも思わないし、承太郎が高校生の時に自分のようだったとも思えない。
以前、仗助は承太郎が高校生の時の写真を見たことがある。そこに写っている若い(といっても老人と呼ばれる部類だろうが)父親の姿も、全然タイプの違う外国人二人の姿も、ふてくされたように寝そべる犬の姿も、今と驚くほど変わらない、それでもやっぱり少し若い承太郎の姿も、承太郎の隣でぎこちなくはにかんでいる高校生の姿も、その写真を眺める承太郎の目も、仗助はしっかりと見ていた。その時の承太郎の眼は、そう、実に人間臭かったと思う。視線だけで彼は彼の記憶を慈しんでいた。人間らしい感傷だった。
良くも悪くも現代を生きる仗助は、誰かをからかうことでコミュニケーションを取ることが得意だったけれど、それをしてはいけないタイミングをちゃんと知っていた。だから彼はこの事を口に出すことは無いだろう。今までも。そしてきっと、これからも。
仗助の視界の端でまた紺色が大きく揺れた。ふわりと、重い筈のその色は空気をはらんで浮かぶ。反射的に仗助はそちらを眺めたから、その彼の様子を隣から苦笑気味に見守る視線の存在にも、その柔らかさにも気がつかない。まだ。

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