黒子の視界には柔らかく光る本の文字。がたた、と揺れる電車の座席を気にも止めず、彼は静かに読書に集中していた。
昼間の電車は空いている。座席は人よりも空席が目立ち、乗客はみな自分の隣に荷物を置いて悠々と席を占拠していた。その例に漏れず黒子も自分の座席の隣に大きなスポーツバッグを置く。七人がけのうち二席を占める。通勤ラッシュの電車では許されない所業だが、昼間の電車でそのようなことを気に止める者は誰もいなかった。それは彼の気配が薄いだとかそんなことには関係なく。
日差しは黒子の背中から差し込んでくるが、引き下げられたカーテンのおかげで決して眩しくはない。窓と窓の隙間から漏れる光が床に細い線を作った。節電だとかで電気は消されているが、ぼんやりと青みがかった空気は十分に明るい。穏やかな、休日の、昼下がりの、電車。車内の人間は、みな一様に無表情の中にほんのりと夏の熱を孕んでいる。黒子は淡々とページをめくる。薄くかけられたクーラーの音と、大きく響く車輪の音がこの空間を満たしていた。
彼が乗車した時から続いていたその静寂は、次の駅で破られることとなる。開くドア。途端に車内に吹き込む熱波。騒がしい子供たちの声。乗り込んでから黒子が初めて顔を上げると、そこにはアニメキャラの紙帽子をかぶった幼い子供たちが楽しそうにはしゃいでいた。その様子を見守る若い母親と、その手に握られたチラシとカードに黒子は納得する。そうだ、この路線はスタンプラリーを行なっていた。きっと全て集めれば何かそのアニメのグッズがもらえるのだろう。周囲を気にもせず、お互いの顔だけを見て笑う子供たちは、その額に光る汗は、夏の日差しのように眩しい。
ついでに覗いた電光掲示板に表示されている駅名に、黒子は僅かに瞠目する。駅名は思いのほか進んでいた。自分で考えていたよりも本に集中していたらしい。彼が乗り込んでくるのはあと二つ先の駅だった筈だと、彼はもう一度紙面に目を落とした。



あまりにも目立つ長身がドアを埋めるかのように乗り込み、何かを探してキョロキョロと周囲を見回しているのを見て、「火神くん、ここです」と黒子は声をかけた。一瞬驚いた表情を浮かべた彼は呆れたようにため息をつくと、黒子の鞄の隣に音を立てて腰を下ろす。同様に鞄を座席に置くとTシャツの首元掴んでをばたばたと風を入れた。

「あっつー」
「お疲れさまです」

これから疲れに行くんだけどな。
そう言って笑った火神に黒子も頷いた。二人が電車に乗っているのは少し離れたスポーツジムに行くためである。カントクが懇意にしている人だとかで、休日に格安で貸してくれるというから、先に用事を済ますと言った火神とこうして電車で待ち合わせをして向かっていた。
あまりにも大きい人物の登場に車内の数少ない視線は一瞬集まったが、それもすぐに消えた。いや、子供たちの無邪気な好奇心に満ちた光はちらちらと彼の方を伺っているが、そんなことを彼は気にも止めない。

「あー、こっからどんくらいだっけ」
「5駅ですから、15分くらいじゃないですか」
「はーん。日本の鉄道は便利だな」
「狭いからこそここまで発達した、という気もしますけどね。」

無表情で答える黒子の表情は涼しげである。火神よりも先に電車に乗り込んでいたのだから、この夏の暑さはもう体から消えているのだろう。何気なく黒子の手元を見れば、男子高校生が使うとは思えないほど地味なブックカバーが見えた。

「なんだ、お前また本読んでんのか」
「ええ」
「おもしれえの?」
「面白くないのに読みませんよ」

そりゃそうだ、と答える火神は面白いと聞いてもその内容に興味を示さない。黒子にとって面白いからといって火神にとって面白いとは限らないのだし、十中八九趣味は合わないと判っていた。そもそも彼は読書に興味がない。
ちまちまと並んだ文字を読むことの何が楽しいのか彼にはさっぱりわからない。だったら映像で見たほうが色や形も分かり易いし、映像で見るくらいなら自分で体験したほうが手っ取り早い。自分には出来ないことを体験できる、といえばそれまでなのだろうが、彼は自分の行動できることを自分で体験するだけで十分満足だったし、毎日限界まで動き回っても世界は広く、果てがなかった。

「火神くんは、趣とかそういうの全然解さなそうですね」
「なんでいきなり馬鹿にされてんの俺」
「馬鹿にしてるんじゃんくて素直な感想ですよ」
「逆にタチわりぃよ」

皮肉や厭味ではなく正直な感想だというのなら、本当にそれ以上でもそれ以外でもなく、本心なのだろう。冗談ではないということだ。火神自身、人に言われずともそんなことは百も承知していた筈だったが、こうもきっぱり言われてしまうと頬がひきつった。

「情緒っていうか、感傷っていうか」
「まだ言うのか」
「いや、褒めてるんですよ」
「どこがだよ」
「君は全然ぶれませんから」

情緒的だとか繊細、感傷、なんて聞こえはいいですけど、ほとんどの場合はただ不安定な人ですからね。
正面の座席、誰もいない場所からじっと視線を逸らさない黒子がどのような表情をしているのか火神には判らない。恐らくいつもどおりに、読み取れない無感動な顔をしているのだろう。けれどそれに似合わず、その内面は人並み外れて情熱的だということをいい加減彼も理解しているので、この会話ももしかしたら結構な意味があるのかもしれないと思う。どうでもいい、目的地に着くまでの時間つぶしの範疇かもしれないが。

「ぶれないってなんだよ。俺だって迷ったりするぞ」
「そんなの判ってますよ。君の場合迷ってることも少ないとは思いますけどね」
「じゃあなんだよ」
「そうですね」

黒子の台詞に割ってはいるように、明るい子供たちの叫び声が車内に響いた。えー!なんだよお前それ、ずっりー!何人かの子供たちが大笑いしながら一人の肩を叩いている。火神は思わずそちらを見たし、一点をじっと見つめていた黒子もそちらに頭を向けた。周囲の目線が厳しくなる。慌てて母親たちが注意をしているが、盛り上がった子供達はその程度ではおさまらない。しばらく電車の中は甲高い笑い声で満ちていた。
一人の母親が強めに叱ったことで子供たちは落ち着きを取り戻す。それでもけらけらと笑いながら、その集団は親に手をひかれ次の駅で降りていった。時間にすれば、わずか一分足らずのことだったかもしれない。
なにごとも無かったかのように、黒子は話を継いだ。

「君は、自分以外の何かになりたいと思ったことがありますか?」
「あ?自分以外の何か?」
「ええ」
「そりゃあ俺だってガキの頃はスーパーマンに憧れたりしたぜ?」
「それは、スーパーマンのようになってる自分でしょう」
「あ?違うのかよ」
「全然違いますよ」
「じゃあ、お前は何になりたかったんだ」
「僕は、ラムネ瓶になりたかったです」
「は?」

全く予想だにしない台詞に火神は思わず素で呆れた声を出してしまった。自分以外の何か、って、確かに、誰か、とは尋ねられていないが、と彼は首を傾げる。しかもライオンや白鳥らなどの動物ならまだわからなくもないが、黒子から告げられたそれは完全に無生物だった。
何を素っ頓狂なことを、という意味の「は?」だったはずだったがその意図は伝わらなかったらしい。いや、伝わっても故意に無視しているのだろうか。黒子は案外そういうところでマイペースである。

「もっと正確に言えばそこに入ってるビー玉ですね。知ってます?」
「あ、あー、一回飲んだことある、かな…?」
「透明なサイダーがビンの色に透けるのを、それを通した太陽の光が揺らめくのを、泡が僕のガラスを撫でていくのを感じるのは、とても美しいだろうなと思います」
「あー、なんかわかんなくなってきたな」
「解りませんかね。冷たい泡の中で、瓶とぶつかってこすれながら揺れていたいんですよ」
「さっぱりだ」

早々に理解を諦めた火神の顔を見上げて、ぼんやりと黒子は笑った。それが、わからないだろうと思った、というような顔だったのでなんとなく火神はいらだたしい気持ちになる。けれどそれはわからないことを責め立てるでもなく、あざ笑うでもなく、本当に単純な笑顔だったので文句もつけにくい。これを狙っているのだとしたらタチの悪さは最高だなと頭を掻きながら彼は思う。

「それとか、そうですね、白熱電球とかもなりたいです」
「電球?」
「ええ。出来るだけ昔ながらの、電力消費の割にあんまり明るくはならないオレンジ色のやつです」
「お前それ本当になりたいの?」
「なりたいですよ。あのぼんやりとした光、好きなんです。電力の割にあんまり明るくないんで家じゃ使いませんけど」
「褒めるかけなすかどっちかにしろよな」
「それで?」
「あ?」
「火神くんは、そういうの、ないんですか?」
「……無いな」

一応考えては見たが、答えは明らかだった。そもそもそのような発想自体、今黒子に言われるまで彼の中には存在しなかったのだ。別に、ほかのものを美しくない、だとか、好きじゃない、だとか感じているわけではない。確かにラムネに入っているビー玉は美しいと思う。電球もまあ、そのあかりの柔らかさは良いと思う。けれどそれになりたいか、なんてことを火神は考えたことがなかった。そう感じることが、そう思うことが情緒だというのなら、そうやって世界の一つ一つに目を止めて思いを寄せることだとしたら、確かに自分に情緒は無いなと火神は思う。むしろ、無くてよかったかもしれないとすら思う。なんだかそれはいちいち面倒くさそうに見えたからだ。

「むしろお前がそんなのになりたいってのが驚きだぜ」
「そんなの、っていうのが心外ですけど、そんなのならまだまだありますよ」
「お前も言ってんじゃん」
「フェンスの金網になってみたかったです。カシャン、っていうあの音、耳障りっていう人もいますけど、いい感じに胸を締め付けられるっていうか、僕は好きです。濃紺のインクにもなってみたかった。それで誰かが僕好みの物語を書いてくれたら最高でしょうね。電柱の、何に使われてるんだか判らないコードになってみたかったです。アスファルトの上の光る…あれなんて言うんでしょうね。まあ、その光る粉にもなってみたかった」
「……」
「茄子も良いですね。水に濡れたあの色が一番夜空に近いと思うんですけど。炭素にもなりたかった。有機物には必ず必要って凄くかっこいいじゃないですか。ああ、まあ死ねば炭素にはなれるわけですけど」
「やめろ縁起わりい」
「別に、今すぐ死にたい炭素になりたい、なんて思ってませんよ」
「判ってる」

珍しく長々と喋ったかと思えばそれかよ、と火神は笑った。だって沢山あるんです、と黒子は笑わなかった。
電車のドアが開いて、白いワンピースを着た女性とリュックをしょった少女が乗り込んでくる。入れ違いにヘッドホンをした男性が降りる。それぞれの夏が行き交っている中で、二人はぼんやりとそれを眺めていた。そこでふと火神は気がつく。同じ景色を見ていると思っていたけれど、それは全くの勘違いなのだと。彼が今見ている光景は、現実に実際に存在しているもので、故にその認識に差異など無いと彼は思っていた。身長が違えば視界は変わるし、視野の広さは人によって違う。けれどその見ている世界自体が違うだなんて火神は思わなかったし、考えたことが無かったのだ。例えば、今彼の向かいの座席では一人の老人が手にハンカチを握って床に目を落としている。それは変わることのない事実だと思っていたけれど、黒子の目には全く違う景色が映っているのかもしれない。荷物を詰め込んだ鞄を並べて、隣に座る二人の夏はきっと違う世界なのだ。

「なんか、すげえな」
「何がですか?」
「いや、俺そんな目で見たこと無かったわ」
「そんな目、というと」
「炭素なんて普通に生きてて存在考えたこともねーし、茄子はうまいだけだし、電柱は立ってるだけだしアスファルトの光るやつはなんか光ってるだけだし、あとなんだ、インクはインクだしフェンスはフェンスだし」
「ビー玉はビー玉ですか」
「そう」
「お前が見てる世界ってなんかすげーのな」
「そんなことはないですけど」
「や、多分俺には無理だわ」

そう言って頭を掻く火神を見て、黒子はまだぼんやりとした笑みを浮かべた。火神は黒子が凄いというが、実際に凄いのは火神の方なのだ、と黒子は思う。他の何物にも揺さぶられることなく、自らのみをたよりにしていく強さは、誰もが持てるものではない。そして、他の物を他の物のまま受け止めるということだって、本当はとても難しいことの筈なのだ。どうしたってそこに自分の余分な感情が混ざってしまうし、他人の意見に左右される。けれど火神は、それが無いという。きっと彼の前には物事が全てあるがまま写っているのだろう。
世の中はそんなに単純ではないと人は言うかもしれないが、黒子はそうではないと思う。世の中は驚くほどシンプルなのだ。あんまりにもシンプルすぎて、そのまま信じることが難しいから、それぞれの解釈を勝手に加えているだけなのだと思う。美しいものはシンプルだ。
人を観察すればするほど、結局はシンプルなものに集約されていく。けれど黒子は火神ほどあるがままを受け入れることはできない。それは決して悪いことでは無いと思うのだ。黒子の世界は火神とは違うけれど、黒子なりに世界は割と雑多で、そのくせその一つ一つは美しかった。向かいの座席に座っている、年老いた老人の首による皺だって、彼は美しいと思う。

「火神くんは」
「あ?」
「火神くんは、ありませんか?」
「何が」
「世界が美しすぎて、吐きそうになりませんか」

黒子の言葉に火神は大げさに首を傾げた。その様子に、ああやっぱりわからないか、と黒子は内心で頷く。
黒子はたまに、どうしようもない美しさに戸惑うことがある。世界の一つ一つがそこに存在しているだけで意味を持って、美しい記号として彼の前に延々と広がるのだ。煉瓦も、アスファルトも、白線も、ガードレールも、枯れた植え込みも猫じゃらしも、青空も雲も太陽も空気も、行き交う人も放置された自転車も、酸素も窒素も炭素も、名前も知らない何もかも、全て平等に黒子の前では美しく、彼は美しさの中で溺れてしまいそうになる。自分の存在が不確かになる瞬間がある。まるで世界に自分がいないかのように。

「あー?意味わかんねえけど」
「まあそうだろうと思いました」
「それってあれか、腹が減りすぎて逆に気持ちわりいとか、一周して腹減ったの忘れるとか、そういうことか?」
「全然違うと思いますけど、もしかしたら、そうかもしれません」
「あやふやだな」
「いえ、多分、そういうことですよ」

あまりにも身も蓋もない例えに黒子は一瞬呆れたが、火神の世界ではそういうことなのかもしれないな、と思い直した。見えている世界が違うのだから、当然のことだった。そしてそれは決して悪いことではない。

「しっかしお前どんだけわがままだよ」
「わがままですか?」
「いや、わがままだろ。そんだけ他の物になりてえって」
「別に、他の物になりたいとは思いませんよ」
「はあ?!」

今までの話を全て否定するような黒子の台詞に、火神は思わず怒鳴りかけた。当の本人はといえば平然として何当たり前のこと言ってんですか、という表情を浮かべている。
こういう所がタチが悪いというのだ。いかにも無害です、という顔をしていながら、その実マイペースで、決して自分の意思を曲げない。それにも大分慣れてしまったと火神はため息をついた。本日幾度目になるかは分からない。
その様子を見て黒子は笑う。普段のぼんやりとした微笑みではなく、悪戯が成功した子供のような顔で。きっと火神がこのような反応をすることを予想してこの話運びと発言をしたのだろう。目的地に着くまでの時間つぶしの話。

「僕は、今の僕を気に入ってます」
「意味わかんねえ…」
「他の物になりたいけど最後には今の自分を選べる自分が好きなんですよ」
「ますます意味わかんねえ…」

ぐったりとした調子で火神は呟いた。今からトレーニングしに行くというのに、何故こんなにも精神的に疲労しているのだろうと彼は訝しむ。

「そもそも、ビー玉じゃバスケできないじゃないですか」
「今更それ言うのかよ!」
「ダンクを決められる身長とか、ずっと走っていられる体力とか、正確なシュートを決められる腕とか、欲しかったですけど」

そういうスーパーマンに憧れた時期もありましたけど。
呟いた言葉は僅かに火神に届いた。けれど彼は何も言わない。今の黒子が今の自分を気に入っているというのなら、彼はもうスーパーマンになんてなりたくもないだろうとわかっているからだ。それで良いのだろうと火神は思う。世界の全てを共有する必要など無い。同じものに憧れる必要も無い。二人で違うものを見れば良いと思う。いつかどこかで重なる日が来るだろう。いつかどこかで重なって、二人はこうして隣同士、電車に揺られているのではなかったか。光陰とは、そういう意味ではなかったか。
火神くんは。そう告げた言葉は確実に火神に向けたものだったので今度こそ彼は聞く体勢に入る。

「さっきの子供たち、どう思いました?」
「どうって、元気がよくていいんじゃねーの?楽しそうだったし」
「僕も、そう思います」

それで、いいんですよ。
黒子が笑ったのと同時にドアが開いた。夏の騒音と遠く歓声が、柔らかい風と共に車内に吹き込んで、ああ、成程、夏の風になるのは良いかもしれないと、そんなことを少し考えた。二人。





黒子と
火神と
17分



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