エメラルドの国 ep0








***全学部共通情報PCルーム第4教室二限***



二限終了の鐘が鳴り、高尾は向き合っていたパソコン画面から目を離した。朝からPCルームに篭って三時間。二限を犠牲にして作ったレジュメはようやく完成と言えそうだった。昨日の夜からほぼ完徹で仕上げたそれは、我ながらよくできていると満足げに伸びをする。印刷ボタンをクリックして学生証を抜き取り、コピー機に差し込めば自動で始まる印刷。あくびを噛み殺しても僅かに歪む顔は抑えきれなかった。
吐き出される用紙を眺めて首を動かす。バキバキとあまり穏やかでない音と一緒に、腹が鳴るのが聞こえた。そういえば朝から何も食べていない。コンビニのおにぎりで満たせるとも思えないし、昼食は学食に行こうと決意する。
問題は、この時間帯の学食は尋常ではなく混雑するということだけだ。さて、この印刷が終わってから向かって間に合うだろうかと少し心配になりながら斜めがけのリュックを背負う。プリントはこの鞄に入りそうにない。デカいやつで来るべきだったと後悔しつつ、印刷ほやほやで少し温かいプリントの束を抱えた。

PCルームから外に出れば、少し冷たい風。後期が始まって一ヶ月。どうやら秋と呼んで差し支えない季節になったらしい。
赤い実をつけるマンリョウの樹をじいっと見つめて高尾は歩き出した。人でごった返す食堂へ。足元には少し色づいた木の葉が舞い始めている。木々の枝も色が深くなった。耳元を通り過ぎる風は、いつの間にか鋭い音をたてる。ポケットの外に出した左手が段々と熱を奪われていく。
ああ、秋が来た。そんなことをもう一度思った。
空は晴天。メインストリートは移動する生徒で賑やかだ。植え込みの上を、足早に歩く人の影が踊る。光と影が交互に入れ替わって、まるで天然のイルミネーションのようだった。ちかちかと入れ替わる。巨大な木材を抱えた集団にぶつかりそうになりながら、他大には無い独特な匂いを纏う校舎へと入る。絵の具と、接着剤と、金属と、薬品と、ペンキと、それから高尾の知らない沢山のこだわりの匂い。
食堂でまで絵の具の匂い嗅ぎたくねえな、と思いながら、すれ違う男性が持つ歪なオブジェを避けた。幾何学模様の鉄骨でできたその謎の物体は、白い部屋によく似合いそうだった。



***5号館一階食堂昼休み***



「あれ、宮地さん、大坪さんに木村さんも」
「あ?なんだよ高尾か」
「宮地さんひっでー!可愛い後輩に向かってその言い草はないっしょ!」

席を探して辺りを見回す高尾の目に入ったのは見慣れた茶髪。それの隣の坊主頭と向かいの真面目な黒髪。知った顔にこれ幸いと高尾は近づいた。座席は案の定埋まっていて、このままでは立ち食いもやぶさかではないという状況だったのである。

「なんだ、お前一人か?珍しい」
「んあー、いつもこの時間は同じクラスの奴と食ってるんすけど、今日俺二限サボっちゃって」
「そうか。なんなら一緒に食べるか?」
「マジっすか?あざっす!」

言われなくても同伴するつもりだったが、言ってもらうに越したことはない。苦笑した大坪に高尾は満面の笑みで答えた。カツカレーを片手に、クリップされたA4プリントの束をもう片方の手に抱えた彼は遠慮なく宮地の前の席、大坪の隣に座る。二年上の先輩に対して少しも動じない姿を見て、お前も相変わらずだな、と木村は呆れたようなため息を零した。木村の目の前には、既に平らげられた、チャーシューメンと思わしき丼がある。

「お前ずっとそんなんなのか?」
「あー、コイツまじ高校ん時からそうだったよ。うぜえくらいにブッ込んできやがる。まさか大学まで被るとは思わなかったぜ」
「宮地さんそんな嫌そうな顔しないでくださいよ。高校じゃ可愛がってくれたじゃないですかー」
「テメェで言うな!!んで、その気持ち悪い言い方やめろ!!お前が来るから仕方なく相手してやってただけだろうが!」
「ああ、そうか、宮地と高尾は同じ高校だったか」

笑いながら海鮮丼を食べる大坪に、宮地は嫌そうに、高尾は笑いながら頷いた。
東京出身の二人は、高校はそれなりに名の知れた私立に通っていたらしい。そのまま私大受験が当たり前、という校風の中で、美大を選択する者は少なく、学年は違えど交流はあった、と大坪は宮地から聞いていた。
面倒見はいいが、その面倒の見方が雑な宮地に対して常にめげずにまとわりついたというから、もしやマゾの気質がある人間ではなかろうかと心配していたのだが、実際に高尾に会った時それが杞憂であったことを知った。この押しの強さとそれを感じさせない社交性はなかなか手に入れられるものではない。現にこうして、大学まで全く交流のなかった大坪と木村に対しても、既に宮地と同じような態度を崩さないのだから。

「木村さんと宮地さんは幼馴染でしたっけ?」
「おお。こいつは私立行ったから俺とは高校ちげーけどな。まさか大学被るとは思わなかったぜ」
「食堂で坊主頭見つけた時の俺の気持ちになれや」
「その後挨拶抜きにいきなりひっぱたかれた俺の気持ちにもなれよ」

それはテメェが叩きやすい頭してんのがワリィ。
飄々とそう嘯く宮地に木村は苦笑を返した。この中でもっとも無骨な顔をしている木村が、実は一番苦労性で一番まともなことを高尾は既に悟っている。宮地は全てを人並み以上にそつなくこなすが、そのアクションの取り方は男らしいと形容するにもいささか乱暴すぎるし、真面目な大坪は真面目すぎるゆえの天然さで、ある意味最も人並み外れた感性をしていた。
そんな失礼なことを考えられているともしらず、大坪は笑いながら二人のやり取りを見ている。そう、大坪は、この二人と幼馴染ではない。

「木村さんと大坪さんは同じ学科、と。はー、こうして見ると、繋がりってすごいっすね」
「コースも一緒だしな。まあ専攻はちげーけど」

宮地は建築学科マー坊スタジオ、木村と大坪は工芸工業デザイン学科クラフトデザインコースである。木村は木工、大坪は陶芸を専攻しているため、コースが同じでも作る作品は全く別だが、1年次2年次はコースごとに同じ授業である。3年になって専攻が分かれても、その友情が壊れることはなかった。

「ってか大坪さんちょっと凹んでません?表情暗いっすけどどーしたんすか」
「ん?ああ、ちょっとな」
「こいつ、ここ最近で一番の力作割ったんだよ」
「う、宮地言うな」

大坪は嫌そうに眉をひそめた。どうやら触れられたくないらしい。温厚な大坪には珍しい表情だ。それを見て高尾は少しハラハラしたが、宮地と木村はにやにやと楽しそうに笑うばかりだった。

「いやアレはほんと良かったんだぜ?工芸の良さなんて正直対してよくわかんねー俺にも判ったわ」
「こう見えてこいつが作るの滅茶苦茶繊細だしな」
「見た目と作品は関係ないだろう」
「お前一回大皿作ったらどうだ?お前が作るちっせー茶碗とかも好きだけどよ。一回はデカモノやってみろって」
「おお、そしたら箱作ってやるよ」
「木工頼りになるね〜」
「俺を置いて話を進めないでくれ」

わいわいと騒ぐ姿は、二年上の先輩とは思えぬほどに明るく学生らしい。普段年上らしい落ち着いた振る舞いを見ることが多かった高尾はホンの少し驚いて、当たり前かと笑った。なんてったって、学生である。気の置けない友人と集まればはしゃいで当然の歳だった。それは勿論、高尾を含めて。

「宮地さんと木村さんは最近調子どうなんすか?」
「俺の方は最近デカイ展示終わったからな。」
「ああ、月齢祭の」
「おお。先月が木工だったんだよ。今月はどこだったかな…。まあ宮地は相変わらず死んでる」
「マジあの教授……毎回毎回クソみてえに鬼畜な課題出しやがって……卒業したらぜってー一回は輓く」
「まるで二度目三度目を我慢しているようだが、普通の人は一回で死ぬぞ」
「や、大坪さん多分ツッコミどころそこじゃないっす」
「ちなみに今回の課題はどんなだよ?」
「劇場建築パターン20個製図。期限三週間」
「建築のことは何もわかんねーけど、どう考えても数おかしくねーか」
「デケエ装飾箪笥20個作れって言われてるようなもんだよ」
「その教授死ねばいいのにな」

荒々しくペットボトルを机に置いた宮地の表情はひきつっていた。パキ、という軽い音がして、手に握られたポカリスエットが凹む。幾度か宮地にヘッドロックをかけられた時のことを思い出して高尾は顔をしかめた。容赦なく痛いのだ、あれは。
しかし流石にその手が高尾の方にむくことはなかった。木村が、今度お前んちに桃もってってやるよ。と慰めのようなことを言えば、存外あっさりと宮地は機嫌を直して巨峰の方が良い、とのたまう。
よかったよかったと胸をなでおろす高尾を、宮地はじいと見つめた。

「高尾テメーは……聞くまでもねえな」
「えええ、なんでっすか、聞いてくださいよ」
「はー、うっせ。知らね。ほらもうあと10分もねえぞ。ちゃっちゃと移動しろや」
「げ、あ、ホントだ。じゃ、お邪魔しました〜。ちなみに先輩たちはこのあとは?」
「授業サボって中野行く」
「大坪の知り合いが個展やってるんだとよ」

大坪の知り合いということはおそらく展示は陶芸関連だろう。なんだかんだ、凹んでいる彼を励ますつもりらしいと悟る。こういうところは、素直に羨ましいと感じるところだ。自分にはまだそこまで心を許せる友人はいない。いや、友人は多いけれど、これほどまでの信頼関係を築けるかといえば、首をひねらざるを得ないのだ。

「なんかのヒントになりゃいいですね。お疲れ様っす」
「おお、テメーもほどほどにな。空デの方にあんま知り合いいねーからよくわかんねーけどよ」
「あざっす。そんじゃまた今度!合コンとかあったら誘ってくださいね!」



***造形学部空間デザイン演出学科628教室三限***



「あ、伊月さんお久しぶりでっす」
「ああ、高尾くん久しぶり。先週コレ休みだったからな」

宮地達と別れ、教室に到着すれば見慣れた黒髪がすでに席についていた。
高尾の一つ上、二年次の伊月である。
高尾は空間デザイン演出学科。通称空デに在籍している。普通他学科と絡むことは少ないが、高尾の交友関係は異様に広く、ほぼ全ての学科を制覇しているといって過言ではない。とはいえど、同じ学科に知り合いがいないなどということがあるはずもなく、そうしてその頼れる先輩の一人がこの伊月だった。

「俺木曜は二三四限で入ってるんで、真ん中空いても暇なだけだったんすけどね」
「あー、俺もだ。まあ四限出席なかったから帰っちゃったけど…、あ、『四限を避けん』…キタコレ!」
「ぶっは、相変わらずっすね。そのつっまんないギャグ!」
「お前結構あっさり言うよな」

このギャグさえなければなぁ。という言葉を高尾は一度も口にしたことはない。つまらないとは思っているが、それを堂々と言ってのける伊月の感性は好ましいのである。

「ところで、隈酷いけど大丈夫か」
「え、マジっすか」
「おー、明るいところで見るとよくわかる」

そしてそのギャグさえなければ、伊月はいたって面倒見の良い、気の使える、そうしてよく気がつく良い先輩だった。先ほど宮地が言いかけて面倒そうにしたのはこのことだったのだろう。それを言わないのが宮地の優しさであり、それを言うのが伊月の優しさだった。

「うはー。いや、それが聞いてくださいよ。俺、鬼熊の演習も取ってるんですけど、課題が『時間と空間を絡めた三分間のショートストーリー案10本』って言われて…しかも期限二週間すよ?!」
「あ、それ一昨年森山さんが笑顔のまま気絶したって伝説のやつじゃん。取る前にキツイって情報入ってこなかった?」
「入ってきましたよ…。でも熊田さんのコネツテの魅力には勝てなかったっす」
「あー…まあなあ。あの人ホントそれだけは凄いから」

鬼熊とは、空デの教授陣の中で最も厳しいと恐れられている教授のあだ名である。本名は熊田というらしいが誰もそちらで呼ぼうとはしない。鬼熊といえば他学科でも評判になるほどの無茶な課題で有名だった。
しかし厳しいだけあってその実力は折り紙つきであり、国内外で評価が高い。彼の授業についていけるかどうか、技を盗めるかどうかで一年間の間に大きな差がつくともっぱらの噂だった。
高尾の二つ上、伊月の一つ上である森山も一年次にその授業をとったらしい。伊月とサークルが同じだという理由でこの二人の交流はそれなりに深い。高尾も全学年共通の授業で幾度か顔を合わせたし、試験問題の流用などでお世話になっている。

「つっても寝ないと真面目にぶっ倒れるぞ。『女性を口説く10の必勝法』っていうテーマで最後の一つ発表終わった瞬間に倒れた勇者になりたくなかったら寝るんだな」
「あざっす。っていうか森山さんそれ単位」
「Aだった」
「マジっすか…」

鬼熊は意外とユーモアを解すのか、それともその熱意が認められたのか、森山の発表内容が素晴らしかったのか。全てあてはまるような気がしたし、どれにあてはまっても微妙な顔をすることしかできなかった高尾は慌てて話題を逸らした。

「伊月先輩って、来年のコースはゼノ考えてるんでしたっけ」
「んー、まだ迷ってるけど多分そっち行くかな」

高尾たちの所属する空デは三年次でコースが分かれる。舞台芸術や映画のセット空間を演出するゼノグラフィ。形や光を空間として表現する空間計画・空間構成。そして衣服を空間と認識して構成するファッションデザインコースの3つである。

「森山さんはファッションデザインだな」
「俺が最強のモテコーデを作るってずっと言ってますもんね」
「あそこまでぶれない人も珍しいよ…」

堂々と、一年の時からそういってはばからなかったらしい。その頃の高尾はといえば、まだ美大受験を考えてどうしようかと迷っているくらいだろう。しかし想像することは容易かった。森山とて、贔屓目なしにいい男なのである。いい男であるにもかかわらず、その想像がたやすく出来てしまうところが、彼を残念と言わしめるポイントだった。
空デは残念なイケメンが多い。そう言われるのは間違いなくこの伊月と森山が一役買っている。

「お前は?」
「計構行こっかなとは思ってます」
「あ〜、そりゃお前熊田とっといたのは正解だ。ま、頑張れ」
「なんかテーマのヒントとか無いっすか…」
「自力で頑張れ。あ、俺の駄洒落使うか?」
「すっげー冷え込んだ話になりそですね」
「だからお前、結構言うよな」



***造形学部芸術文化学科10号館前五限***



「んあ?降旗じゃん」
「あれ、高尾か。こっちの棟うろついてるなんて珍しいね」
「まーな。降旗今暇?」

芸術文化学科の校舎はほかと比べて少し離れている。よって他の学科の者が現れることは珍しいのだが、そんなセオリーを無視して高尾は中庭を歩いていた。
高尾はあまり無駄な行動をしない。傍から見ていると無駄に見えても、そこには高尾なりの意味がある。それを知っていた降旗は、少し困ったような笑みを浮かべて答えた。

「暇じゃないって答えても暇にされそう。大丈夫だよ」
「よっしゃ!ちょっと付き合ってくれよ」
「いいけど、何、時間つぶし?待ち合わせ?」
「ん、そんなとこ」

連れ立って歩きながら、10号館校舎のラウンジに向かう。自然な流れで自販機に向かうと、高尾はコーラとリンゴジュースを買い、あっさりと片方を投げ渡してきた。いらないよ、と断っても、もう買っちゃったし。と返されることは目に見えていたので、この恩はどこかで返さないとなあと降旗は一人で決意する。高尾からしてみれば話に付き合わせる分のお礼のようなものなので、そこまで考えてもらう必要はないのだが。しかし降旗のこういった律儀な面が、静かに人望を集めていることを高尾は知っていた。

「最近調子どうよ」
「んー、大変だけど楽しいよ。今はまだ知識蓄えてる段階だけど。高尾の方はもう実践多いのかな?」

芸術文化学科は、その名が示す通り、芸術文化を知るための学科である。つまり、自分たちで制作することがメインではない。その点ではほかの学科よりも異質だと言えたし、校舎が少し離れていることもそのあたりに理由があった。
高尾が自分の方の様子を話せば、降旗の目は素直な尊敬に輝く。

「いいなあ。俺もはやくやりたい」
「降旗んとこって、制作系あったっけ」
「ゼロではないかな。やっぱり実際に作ってみて分かることってあるし。あ、いや、専門でもないのに偉そうなこと言えないんだけど」
「いやいやいや。なんでそこで謙遜すんだよ。わかるぜ。」

普通、何かを制作する人物というのは、多かれ少なかれ自分の作品に自信を持つものである。そうでなければ人前になど出せない。こだわり尽くして作るからこそ、そこには自負が生まれる。おちゃらけているように見える高尾だってそうだ。その点で、降旗のような性格の人間は非常に珍しかった。
けれど自分が足りていないと思うからこそ、降旗は熱心だし、そうしてほかの人の作品を素直に受け入れる。変な贔屓やプライドなしに評価する。それは芸術の価値を学ぶ学科において、非常に大切なことだということを、本人だけが未だ気がついていない。
そのまま高尾が昼休みのことをつらつらと話していると、降旗は唐突にため息をついた。

「高尾の人脈はすごいよな…」
「そうか?知り合いが多いってだけだろ」
「それがすごいんだよ。俺知り合いの少なさ尋常じゃねえもん。多分アドレス帳見たらスッカスカでビビると思う」
「どんだけだよ」

高尾のアドレス帳は成程、300や400ではきかないだろう。けれどそのうちの何人が、高尾の危機に駆けつけてくれるかといえば微妙なものだった。その点。

「お前の知り合い、いいやつ多いだろ」
「ん、そうだね。先輩も友達もみんな優しいよ」
「それが一番だって」

本心から高尾がそう言えば、ありがとう、と降旗は恥じらうように笑った。そりゃ、良い奴が集まるわけだわ、と高尾は一人納得する。
そうして話題は今噂の彫刻家の話になり、その奥さんの話になり、最終的には先週発売されたゲームの攻略法の話題になって終わった。なんだかんだ、話が合うのである。



***11号館地下自由棟管理人鍵管理室放課後***



「あ、すんません、地下空いてます?」
「そうだねぇ、11007空いてるよ」
「マジっすか。じゃあそこお願いします」
「はい、鍵。今日はいつもより終棟はやくて21時だから気をつけて」
「了解でっす。まあ俺いつもそれくらいには出てるんで大丈夫っす」
「そうかそうか。もしも私が巡回でいなかったら、鍵はポストに入れておいてくれればいいから」
「はーい」

11号館は自由棟だ。簡単に言ってしまえば、制作のための貸出スペースである。その中でも001〜009教室は広いため人気でなかなか取れないことが多い。今日は運が良いなと高尾は口笛を吹きながら向かった。
抱えられているのは先程まで持っていなかった巨大な紙袋。実はこれは、芸術文化学科に所属している友人のサークル部屋に好意で置かせてもらっているものだった。軽音サークルはそういうところ、ノリが軽くて良い、と高尾は思う。代わりに手伝いに駆り出されることもしょっちゅうだが、ギブアンドテイクである。ステージに立たされるのもたまには悪いものではない。
鍵を回して電気をつける。教室内には石膏の匂いが立ち込めているが高尾は気にしない。紙袋から一つのキャンバスを取り出して、それから絵の具と筆を取り出した。

「あ、そーだ」

昼休みに思いついたんだった、と彼は割れたガラス片と陶器を取り出す。それを全て机の上に並べ終わると、高尾の顔から表情が消えた。



高尾は空間デザイン演出学科である。彼はその学科でこそ自らのセンスを活かせると思ったし、学科の内容も空気も自分に合っていると思っている。
けれど、けれど一番最初、彼が美大を目指したのはそのような理由ではなかった。

いつも目蓋の裏に見える色がある。

春の芽吹き、睦月六時半の空、日没の海、槍のような稲穂、陽に透けたトマトの葉。音のない清流のようにさやかなその色。気がつけばいつもその色が見える。言葉に表すには形がなく、何もないというには鮮明なその色。その世界。
どこにも存在しないくせに、高尾の中で大きな存在を放つ、それを描くことが、一生を賭けた彼の願いだった。
そうして彼はキャンバスを彩る。自分の学科には、全く関係無い。けれど毎晩、彼はキャンバスに向かう。色鉛筆も、クーピーも、クレヨンも水彩も油彩も、炭も新聞紙もインクもペンキもリボンも布もレースも毛糸もプラスチックもビニールも何もかも。全てを使って、その唯一を表現しようと必死になっている。
そうして未だ、届かない。

格闘すること三時間あまり。キャンバスに映し出されたのは秋の日差し。埋め込まれたガラス片が色を反射してやわく輝いていた。
まだ完成してはいないけれど、どうやらこれも自分の理想とは違うものになりそうだと高尾は悟って肩を落とす。しかし終わってみるまでは判らないと、彼は気を取り直して片付けを始めた。時計の長針は既に11を指している。21時まで残り五分だった。

少しあわてて扉を開ければ、隣の部屋からも丁度人が出てくるところで、あわやぶつかりかけた。高尾の紙袋の中には割れ物も入っている。いや、既に割れたもの、と言ったほうが正しいだろうか。しかしぶつかって万が一の惨事が起こらないとも限らない。彼は咄嗟に頭を下げた。

「あ、さーっせん!」
「……こちらこそ」

思っていたよりも高い位置からかけられた声に、高尾は何気なく頭をあげた。そうしてパチリと合った視線に、肺から空気が零れ落ちる。心臓が脈打つのをやめる。
高尾のことを意にも止めずに歩き去っていくその背中を、その色を、高尾はただ呆然と見送った。

ああ、あれが、俺の、求めていた。

一瞬の後に我に返って、高尾は全速力で駆け出した。なんとしても、なんとしても彼と話がしたい。彼は、彼が。
その瞳の虹彩を見た瞬間、高尾は指先一つ動かすこともできなくなった。
それは、高尾が生まれてからずっと、目蓋から離れなかった、彼の、彼の世界を奪い尽くす色だった。
ようやく見つけた答えを逃すわけにはいかない。
生まれてからずっと、ずっと、求めていたのだ。この色を。この世に生まれ落ちて、息を始めたその瞬間から。ずっと。

背中は見えないが、鍵を返す時に追いつけるだろうと思っていた。教室の鍵を返すときは、帳簿に記入しなければならない。そこまで考えて、よぎった嫌な予感。
今日の教室使用時刻は、21時まで。そうして。

「あー、くっそ、巡回中かよ!」

そう、管理人が巡回している時はポストに鍵を投げ込むだけで構わないのである。求めた影はもう見つからない。この校舎を出たら、もうどこへ行ったかはわからないだろう。
蹲って頭を抱える高尾のもとへタイミングよく、いや、悪くと言うべきだろうか、管理人が帰ってきた。

「んあ?どーしたんだいお兄ちゃん」
「ああああ、すんません!11006借りてたの誰かわかりますか?!」
「006?あーっと、んー、なんて読むんだろうな。緑間真太郎、だな。なんだい。忘れ物でも見つけたかい」
「いや。そういうんじゃないんすけど」

みどりま。みどりま、しんたろう。
その名前に聞き覚えはなかった。しかし深く刻み付ける。緑間真太郎。高尾の求める瞳をした男。背が高くて、それから、そう、瞳にばかり気が取られて正直よく覚えていないのだけれど、大分整った顔立ちをしていたような気がする。上から声が降ってきたということは、かなり背も高いはずだ。
そうしてもう一つ、すれ違った瞬間の、あの。



***大学記念ホール正面入口



「降旗!」
「お、高尾」
「悪いなホント突然」
「いや、いーよ別に。高尾からのお願いなんて珍しいし。まあ夜中に突然『油絵に知り合いいる?!』って電話かかってきた時は驚いたけど」
「はは、悪かったって」

ま、これでリンゴジュースの分は返したってことで。
そう笑う降旗に高尾も笑った。
あの日、緑間真太郎とすれ違った時に感じたのは、油絵具特有の匂い。
しかし高尾は油絵学科に親しい友人がいなかった。珍しいことに、である。
宮地や木村、大坪にも尋ねたが、そこまで詳しい友人はいないとのこと、藁にもすがる思いで降旗に頼み込んだのは夜の12時過ぎだった。



『なあ、降旗!お前、油絵に知り合いいる?』
『油絵?なんだって突然』
『ちょっと今俺の一大事なのよ。で、どう?』
『俺に知り合い少ないのは知ってるだろ…。でも、他に知ってる人いないか探してみるよ』
『サンキュな』

そうして更に一時間後、降旗からメールが入った。

『俺の知り合いの先輩が、油絵に友達がいるって。でも相当偏屈っていうか癖のある人らしいから、直接高尾が聞くのは厳しいらしい。仲介するから、メアド教えてくれってさ』

あまりにも親切な話に、高尾はいっそ頭を抱えた。降旗の周りは、何故こうも暖かいのか。その先輩の名は木吉といった。

『初めまして。高尾和成と言います。突然すみません。油絵で、緑間真太郎って人、知りませんか』
『はじめまして!木吉だ。聞いてみるから待っててくれ』

返事が来たのは意外にも早く20分後。慌ててメールを開けば、そこには少し予想と違う答えが書いてあった。

『月齢祭、判るか?今月は油絵学科が担当らしい。展示ホールに行けばわかるだろうとのことだった。すまないな。気難しい奴で、これ以上のことは今は教えてもらえなかった。』

それがわかっただけでもありがたい。感謝の言葉を連ねたメールを送信すると、高尾は降旗にも感謝のメールを送った。程なくして降旗から返ってきた返信に、高尾は再度目頭をおさえることになる。

『わかったのか?よかったな!木吉さんから少し聞いたよ。月齢祭展示見るんだって?俺も気になってたし、よかったら明日一緒に行こうな!今日はとりあえずおやすみ!!』

この時点で夜中の二時である。高尾からの連絡があるまで起きていたのであろう降旗と、わざわざ身も知らぬ高尾のために気難しい友人とやらに連絡をとってくれた木吉に、高尾は胸中で心底感謝した。
それからその気難しい友人さんとやらにも。お礼がしたいから名前を教えてくれという高尾に、『あまり期待するなよ』と言いながら木吉は名前を教えた。

「降旗、木吉さん、それから、えっと、花宮さん、ありがとう…」



ここまでが昨夜の出来事である。
今二人は月齢祭の展示を見て回っている。
月齢祭とはこの大学独自のシステムであり、月ごとに学科が展示会を行うシステムのことである。先月木村があくせくしていたのはこれだ。基本的にその学科に所属している生徒は全員一点以上出展することになっている。
まさか今月が油絵学科だったとは盲点だったと、並べられた額縁を前に高尾は苦笑した。どれだけ平常心を失っていたというのだろう。

一つの学科の人数は少なくない。一つ一つ眺めながら、その作品につけられたプレートに目を凝らして確認していく。
そうして、その瞬間はあっけなく訪れた。

白い壁にかかった、大きな大きなキャンバス。両手を広げてもまだ届かないだろう。

「お、おい、高尾?!」

降旗が慌てたような声をあげたことにも今の高尾は気がつかない。
ぼろぼろと、自分が涙をこぼしていることにも。

【胎動】と名付けられたその抽象画は、赤を基調に幾重にも塗り重ねられ、そうして脈打っていた。
これは、世界に生まれ落ちた瞬間の悲鳴だ。叫びだ。産み落とされてしまったことへの圧倒的な感情。喜びも悲しみも苦しみも知らない時に感じた、生きることへの圧倒的な渇望と絶望。
したたる血。日の光。圧倒的な熱と、吐き出した酸素と、吸い込んだ二酸化炭素と、空と、影と、生を取り囲むもの全て。
叫びが、聞こえてくるようだ。この世界への。
緑間真太郎、彼が見ている世界は、彼の生まれた世界は、こんなにも激しく、狂おしく燃え盛っているというのだろうか。



とめどなく涙を零しながら、高尾は気がついていた。赤も青も黄色も黒も紫も、橙も桃も白も何もかも、この世の全ての色を含んで、叫びと血の色で包んだようなこの絵は、この絵には、《緑》と呼ばれる類の色が一つとして入っていなかった。





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