最もくだらない、最も青臭い、最も愛しい青春時代!



***



目の前で演奏されるピアノが上手いのか下手なのか高尾には判らない。右手と左手がばらばらに意思を持って動くというだけで高尾からしてみればマジックのようなものだ。常からクラシックに親しんでいるわけでもなし、友人の意外な特技は素直な感動を彼にもたらした。

「スゲーな、真ちゃん」
「普通以下だ」

少しだけ早口で答えた緑間は、それ以上言葉を継ぐわけでもなく、ただ鍵盤に目を落として滑らかなメロディを生み出し続けていた。普段ならばもう二、三言辛辣な言葉が飛んできてもおかしくないところである。はて、と首を傾げた高尾は、弾きながら話すというのは、相当難しいことなのかもしれないと気がついた。歌手なんかがよく弾き語りをしているが、あれはあくまでも曲のメロディと同じ節で歌っているのであって、曲と全く関係のない言葉を話すのは相当難しいのだろう。緑間が普通以下だと言ったのも、そんな自分を客観視してのことだったに違いない。集中しなければ、弾けないのだ。そもそも演奏中に話しかけること自体がマナー違反だったかと彼は反省する。そうして何も判らない旋律に耳を傾けた。

放課後の音楽室は高尾と緑間の二人しかいない。近づいてきている台風も、防音のこの部屋には届かない。
そう、台風が近づいてきていた。朝家を出れば雲の流れは地球を一周せんとばかりに速く、空の色は不穏な気色を見せ、鳥の鳴き声が遠く響いていた。雨はまだ降り出していなかったが確実にリアカーは無理だろうと、今日ばかりは緑間も何も言うことなく、いたって普通に登校して来たのである。二時間目が終わる頃には風は唸りを上げて窓を揺らし、女子の何人かは不安げに暗くなる外を眺めていた。昼休みに入る頃には、土砂降りの豪雨である。警報や注意報は出ていなかったが、夜にかけて上陸するからと、全校生徒に向けて本日の課外活動は中止し、授業終了後速やかに帰れと放送が流れたのは五時間目英語の終わりだった。その頃には生徒全員が、この暴風に堪えきってくれるだろうかと頼りなく自らの傘を眺めていた。折りたたみ傘やビニール傘を持っている者は、もう折れるに決まっていると諦めを顔に滲ませていた。そして濡れ鼠にならんと、傘も差さずに鞄を抱えて外へ飛び出していく有様だった。

「……おい、高尾、どこへ行くのだよ。帰るぞ」
「なあ真ちゃん」
「聞きたくない」
「ひどくね?!もうちょっと聞いてくれよ!」
「嫌な予感がする。それじゃあな高尾」
「待って待って!!」

生徒を追い立てる教師の目を盗んで、帰りたがる緑間を音楽室に連れ込んだのは高尾である。ひょんなことから緑間の特技がピアノだと聞いて以来、はてどんな曲を弾くのだろうと興味が募るばかりだったのだ。かといって曲名や作曲家を聞いてもピンとくる筈がない。そもそも作曲家に興味があるのではなく、それを弾く緑間に興味があったのだからさもありなんである。部活は無い、うるさい生徒はいない、これは彼にとって絶好のチャンスだといえた。半ば強制的にピアノの前まで連れて来られた緑間だったが、珍しく文句を言うだけで抵抗をすることはなかった。訝しく思った高尾がワケを尋ねれば、「今日は蠍座に逆らってはいけないのだよ」と心底嫌そうな顔で答えを貰うこととなる。聞くまでもなかったかと、台風など関係なくおは朝を信じる彼に呆れも感じたが、全ては高尾に都合良く動いているといえた。

「ね、真ちゃん、なんか弾いてよ」

至極嫌そうな顔をした緑間は、しかし不満を口にすることは無かった。蠍座に、逆らう、なかれ。もし俺がいきなり、リンボーダンスしてよ、とか、芸能人のモノマネしてよ、とか言い出したら一体どうするつもりなのだろうと、自分のことのように高尾は心配になった。しかし今、それを利用するように言うことを聞かせているのは高尾自身である。自分が心配する事ではないかと結論づけた。この一風も二風も百風も変わった友人はとても頭が良い割に変にバカで、しかし最低限の良識(それは決して常識ではないと高尾は思う)を持ち合わせているのだから、本当に超えてはいけない一線を超えることはないだろうと。
お前が聞きたい曲など弾けんぞ。つっけんどんに言われた内容に、高尾は、真ちゃんの弾きやすい曲でいいよと答えた。繰り返しになるが、あくまでも高尾が興味を持っているのは、ピアノを弾く緑間である。
大きなため息を一つと、深呼吸を一つ。そして緑間は弾き始めた。

叩きつけられる雨粒。音のしない風。たわむ木。窓の外では世界が荒れ狂っているが、二人きりの教室に流れる曲は静かで物悲しかった。先ほど話しかけて演奏の邪魔をしてしまったことを反省してから、高尾は椅子に腰掛けておとなしく耳を傾けている。じいっと、魔法のようにあらわれるメロディに耳を澄ます。けれどそうすると、今度は思考が逸れていってしまった。これは失礼なことなのではと、ありったけの意識を総動員して、高尾は曲だけを聞こうとする。けれど、知らない曲に延々と集中し続けることは難しい。その曲が与える印象が、イメージが、どんどんと思考を遠くへ連れ去ってしまう。かといって集中したらしたで、逆にメロディーを見失ってしまった。クラシックは難しいと、弾いている本人にバレないよう彼はこっそり苦笑する。演奏している様子を眺めるのは普段とまたちがった姿で面白いのだけれども。
最後の音が響いて、鍵盤から緑間の指が離れた。

「いやー!スゲーや真ちゃん!めっちゃ上手いのな!
「普通以下だと言っただろう。少し触る程度だ。上手い奴はこんなものじゃない」

弾き終わった緑間に惜しみない賞賛と拍手を送れば、苦り切った表情が返ってきて高尾は今度こそ苦笑する。人間普通、褒められたらそれなりに喜んでみせるものだ。賛辞にここまで嫌そうな顔を返すことができるのは、いっそあっぱれといえた。お世辞だとしても普通気分は良くなるものだし、そもそも高尾にお世辞のつもりなどひとつもなかったのだが。彼は、純粋に、凄いと思ったのだ。

「真ちゃんの『普通』基準滅茶苦茶高そー」
「お前の『上手い』基準はなんなんだ」
「ん?両手がバラバラの動きしてたら」

あまりにもあっさりとした、あまりにも雑すぎる高尾の基準に、緑間は一瞬ほうけたあと、呆れたように笑った。低すぎるだろう、馬鹿。

「お前だって、猫ふんじゃったくらいは弾けるだろう」
「え?いや無理無理。マジでピアノなんて触ったことねぇもん。なんかふざけてバンバン叩き鳴らしたりはしたけど」

小学生の時だけどなー、と笑いながら、高尾は戯れに適当な白鍵を鳴らした。指を置くだけで鳴るのだから、鳴らし方すら判らないフルートやらヴァイオリンやらよりは親しみやすいと思う。しかし自分が今鳴らした音が、ドレミファソラシドのどれに当てはまるのか、それすら高尾は判らなかった。ドは、ドーナツの、ド。その程度である。ドとレとミの音が出なくなってもファソラシがあるじゃん?などと、幼い頃の高尾は本気で考えていた。流石にそこまで極端な考えを今は持っていないけれど、かといって何か理解したわけでもない。指をずらして、また適当な鍵盤をはじく。やはり高尾には、それがなんの音なのか判らない。緑間の耳には、はっきりとGの音が聞こえている。そのまま高尾が何の意図もなく、無造作に鍵盤を叩くのを見て、緑間は思わず「音の無駄遣いをするな」と制した。

「……音の無駄遣い?鍵盤が擦り切れるとかそういうこと?あ、なんかよく調律とか聞くけどそういう感じ?」
「……まあ、そういう感じなのだよ」

実際のところは違ったが、高尾がうまく勘違いをしたので緑間はそれに合わせた。説明するには面倒だったし、説明しても意味がないと思った。音の無駄遣いとは、世間一般的なものではなく、彼の頭の中だけにあるルールだった。彼が幼い頃ピアノ教室の先生に言われた台詞である。やはり、幼さと無邪気さといたずら心のままに鍵盤を叩いていた彼に、今はもう顔も思い出せない先生はこう言った。

(ダメよ、緑間くん。音を無駄遣いしちゃ)
(無駄遣い?)
(そうよ。鍵盤の下にはね、沢山の音が詰め込まれてて、誰かが鍵盤を叩くとそれって飛び出すの。それが音なのよ)
(鍵盤の下?待ってるの?)
(そう。たった一回飛び出すためにずっと待ってるの。だからね、鍵盤を引くときは一音一音想いを込めなきゃ駄目なのよ)

幼い彼の頭の中で、白と黒の鍵盤の下に詰め込まれて出番を待つ音達がありありと浮かんだ。そして彼がその小さな手で鍵盤を叩くたび、音は綺麗に飛び出してくる。乱暴に叩けば乱暴に、弱々しく叩けば弱々しく、愉快に叩けば愉快に音は飛び出してきて、彼の世界を飛び回った。無論今となってはそんなおとぎ話のような話を信じているわけもない。けれどふとした時に、そしてそれはたいてい、なにか心が落ち着かなくて音が歪んだ時に彼の心を過ぎるのだった。そんな時彼は、ずっと世界に飛び出すのを待っているのに、こんな汚い音として生み出してしまっているのを申し訳なく思うのである。そして次に弾くときは、普段よりも慎重に、壊れ物でも扱うかのように鍵盤を鳴らす。そうすると音は優しく生み出されて彼は少し安堵するのだ。もはやこれは彼のジンクスに近かった。
それが今、高尾の幼い手つきに思わず漏れてしまったらしい。とはいえど、基本的には忘れている話である。まさかここまで思い入れがあるとは緑間自身も想像しておらず、彼はそんなことを口走った自らに少し驚いた。

「そういや、さっきまで弾いてたの、なんて曲?」
「……ショパンワルツ10番」

ショパンってスゲーんじゃねーの?!と無邪気に驚く高尾に、緑間はかえって恥ずかしくなる。本当に、大したことのない曲なのだ。無論、完璧に演奏しようと思えば果てなどないのだろう。しかしただ間違えずに、ある程度の情感を込めて弾く、というだけならば、技巧的にも中学生が楽に弾けるほどの曲だった。柄にもなく、緊張していたのだと緑間は冷静に分析する。難解な曲を引くよりも、引き慣れた馴染みある昔の曲を弾くことを無意識に選んでいた。

「んー、やっぱ俺には凄く聞こえるけどなー」
「そうか」
「クラシックって難しいなーって思った」
「眠くなったか」
「眠くはなんなかったけど思考は逸れた」
「それは飽きてるというんじゃないか」
「飽きてはいねぇよ!」

でも、なんで真ちゃんピアノ弾けんの? その問に、練習したからだ、と緑間はズレた回答をした。ほかに答えようがなかったともいえる。どうやら質問が不適切だったことに高尾も気がついたようで、首をかしげながらもそれ以上の追求はやってこなかった。
高尾には上手い下手は判らない。そのショパンのワルツとやらが難しいのかどうかも判らない。そもそもワルツに番号がついていることすら今知った程度である。けれど、緑間の、バスケットボールをつかむのに適した大きな手のひらも、完璧にシュートを決める繊細な指も、あつらえたようにピアノの鍵盤に似合った。白と黒で区切られた音の世界に、彼の指は違和感なく収まっていた。下手なのかも、しれない。弾けるだけ、なのかもしれない。けれどそれは、彼にバスケがあったからで、このバスケにあてている全ての時間と全ての熱意をもしもピアノに注いでいたら、それはまたきっと違った未来をもたらしていたのではないのかと思うのだ。シュートのために与えられたような彼の才能は、音を打ち出すためにあったのかもしれないと、ぼんやりとした思考で高尾は思ったのである。
その想像は少しばかり恐ろしかった。ここには存在していないifの未来が、まるで現実のように彼に襲い掛かってきていた。そんなものはどこにもないのに、である。もしも、そうなったら、きっと今の自分のバスケは存在しないのだ、ということを理解して、今更ながらに今立っている足場の不安定さを理解する。沢山のifの中から選び取ってきたり、勝手に選ばれていたり、流されたりした寄せ集めが今の自分たちだと思えば、なんとも奇妙な気分だった。
高尾はバスケを選んだし、緑間はピアノを選ばなかった。

「真ちゃん、ピアノ好き?」
「……嫌いでは無い」

それはそうだろう。嫌いなものをわざわざ練習する人間はそう多くない。もしも大嫌いだと言うなら、それはやはり好きの裏返しでしかないのだ。緑間の『嫌いではない』は世間一般の『とても好き』に当てはまることを高尾はとっくに承知している。それでも緑間はバスケを選んだ。『楽しい楽しくないでやっているわけではない』と、公言して憚らないバスケを選んだのだ。恐らくピアノとは相性が最悪のバスケを、だ。

「帰るぞ」
「ええー!アンコール!」
「何がアンコールだ。良し悪しなど判っちゃいないのだろう」
「わかんねぇけど。なぁ、真ちゃんの好きな曲弾いてよ」
「は?」
「さっき俺弾きやすい曲ってリクエストしたじゃん?だから、好きな曲聞きたいなと」

その時の緑間の顔をどう形容すればよいのだろうか。高尾は、そんなに変なことを言ったつもりはなかった。むしろ、至極まともなことを言ったつもりだった。滅多に好意を露わにしない人間に、「嫌いではない」とまで言わしめるものである。好きな曲くらいあるだろう。どうせならそれを聞いてみたいと思うだろう。普通の考えのはずである。故に緑間の反応に高尾が慌ててしまった。目を少し見開いて、虚をつかれたよう、とでも言えばいいのだろうか。呆然としていた。公園の看板に、ずっと悩んでいた問題の答えが落書きされていたような、呆気なさ。どうやらそんな気軽さで、高尾は緑間の中の何かに触れたらしかった。

「好きな、曲?」
「え? うん。そんな変なこと言った?」
「いや」

俺の好きな曲を聴きたい奴がいるだなんて思わなかったのだよ。
その言葉に含まれた全ての意図を解するには、高尾と緑間は違う人間すぎた。違う人生を選び取りすぎていた。高尾の発言の何が緑間の琴線に触れたのだろう。実際、緑間本人だってよくわかっていなかった。よくわからないまま、何か、今、自分の根幹を揺るがすようなことを言われたのだと理解したのだ。
緑間はピアノが、嫌いではなかった。触れれば鳴るというまっすぐさは好感が持てたし、音が鍵盤で区切られていることもわかりやすくて好きだった。メロディも、和音も、呼吸も好きだった。存外気に入っていたのだなと今さらのようなことを考えて、緑間は再度鍵盤に指を置く。好きな、曲。
流れる指は先ほどよりもゆったりとしていて、その音の数の少なさも、これが随分と簡単な曲であることを高尾に理解させた。そのことが高尾には少し意外で、先ほどよりどことなく楽しげな緑間の横顔を見つめる。美しい曲だということを高尾は解するが、何故緑間がこれを選んだのかは判らない。何百何千とある曲の中で、何故この一つを選んだのだろう。美しいとは思う。美しい曲だと。柔らかい思い出のような、ほんの少し涙混じりの別れの歌のような、美しい曲だった。先ほどよりもすぐに終わった演奏に、高尾は思ったままの感想を告げる。

「……間違ってはいない」
「あ、そうなの?」
「ギロック『パリのポートレイト』」
「曲名?」
「そうだ」

さっきよりも簡単そうな曲だったけど。そう高尾が告げれば、当たり前だと鼻で笑われた。簡単そう、なんじゃない。簡単なんだ。本当に。

「俺が初めて渡された課題曲だ」
「へえ」
「ただ、これでは簡単すぎると途中で変更になってな。結局、人前で弾くことは無かったのだよ」

好きだったんだがな、と呟きながら、ぽん、と置いた指からは美しいDの音。高尾はその響きに釣られるように空を見る。まるで今生み出された音が見えるかのように。それ、何年前の話? と尋ねれば、さあ、十年以上は前だと思うが、と素っ気ない返事が返ってきた。ピアノを嗜まない高尾には、十年前に弾いた曲を今でも覚えていることが当たり前なのかそうでないのか、それも判らない。ただ、緑間の中の大切なものを今共有したのだということは理解した。これは彼の中で、彼の最初を構成した一つだったのだ。彼が色んなものを選び取ってきて、色んなものを捨ててきて、そうして捨てずにとっておいたものの中の一つが、これだった。

「じゃあ俺が初めてこの曲を聴いたわけだ!」
「まあ、そういうことになるのか」

先生や家族を除けば、という但し書きがつくが、そんなことは高尾も承知の上だろうと緑間は素直に頷いた。他に聴かせる人間がいたわけでもない。そもそも緑間は誰かに聴かせるためにピアノを弾いていなかった。そもそも幼い頃親に始めさせられただけだし、そこから先は与えられたものを弾くだけで、それは彼にとっては自分のためでしかなかった。ピアノという存在を彼が気に入っていたからこそ、そこに他者は必要なかった。理由付けなどいらなかったのである。
ああ、とここで緑間は悟る。先ほど感じた衝撃はこれだったのかと。自分のためだけに、自分の欲求のためにしか存在していなかったものに興味をもたれたのは初めてだったのだ。自分だけが満足していればいいと思っていた、だからこの曲を表舞台で弾けなくとも、特に気にすることは無かった。そんなことに左右されず、このメロディは彼の指先にあったからである。けれど、もしかしたら、自分は、弾きたかったのかもしれないと思う。この曲を。誰かの前で。自分の好きなものを。

「そもそも、誰かのために弾いたのは初めてだ」
「へ」
「なんだ間抜けな顔をして」

良い曲だろうと緑間は笑う。その顔に釣られて高尾も笑う。緑間のその表情は、初めての発表会を完奏した時、誇らしげ笑う幼子のそれとよく似通ったものだった。二人きりの発表会。十年ごしにピアノから解き放たれた音たちは優しく宙を泳いでいる。







「真ちゃんはさ、バスケやってなかったらピアニストになってたかな」
「なんだ突然」

再度教師の目を盗み、こっそりと音楽室から抜け出した二人は下駄箱へと向かっていた。人気の無い廊下には二人分の上履きの擦れる音が響く。

「突然でもねーと思うけど」
「分からないが、別にピアニストにはなっていないと思うのだよ」

ありゃ、マジで?そう尋ねれば、別に俺はピアノを仕事にしようとは思わないのだよ、と言われて高尾は少し納得した。じゃあ何?と続けざまに尋ねれば、医者とかじゃないか、と投げやりな答えを返される。
頭の中に浮かべた白衣姿の緑間と、その診療室にある奇天烈な置物を考えて高尾は思わず吹き出した。占いの結果で手術するかどうか決める医者とか、最低じゃねぇかと腹を抱えた。
けれどそうだ、別に、ピアノじゃなくたって、他になんだってあるのだ。そんな当たり前のことを高尾は今一度確認した。自分たちには、他になんだってあって、無限よりはずっと少ないけれど無限と勘違いしそうになるほど沢山の選択肢が広がっていて、その中で奇跡みたいに二人してバスケなんてものを選んだのだ。沢山の選択肢を無視して、二人はこうして放課後、限りある青春を二人で過ごしている。

「だったらお前は何になるというのだよ」
「んー?そーだなー」

たどり着いた昇降口。もう生徒は全員帰宅しているのだろう。恐らく二人が残っていることがバレれば大目玉を食うことは間違いない。おとなしく帰らなかった二人をあざ笑うかのように、雨は滝のごとく音を立てて天から降り注いでいた。数メートル先の視界が雨でけぶる。二人の頭をよぎった情景は恐らく似通っていたのだろう。各々、手に握った傘を眺める。丈夫なこうもり傘もきっと役に立たないだろうと結論を出して、緑間は高尾を睨んだ。どう考えても、状況は悪化している。その視線をどこふく風で受け流して高尾は笑った。

「うおー、こりゃやべーわ」
「やべーわ、じゃないだろう!どうやって帰れというのだよ!」
「いや、普通に帰るっきゃないっしょ。まだ風は許容範囲だしなんとかなるって!」

そう叫ぶと、緑間の静止も間に合わず高尾は土砂降りの中に飛び出した。一瞬で濡れる髪の毛と制服。どう考えても致命傷だったが高尾は楽しそうに笑う。

「真ちゃん!俺そしたら台風になるわ!」
「はあ?」
「バスケやってなかったら台風になる!」
「全く意味が分からないのだよ!」

昇降口の中から緑間は叫ぶ。雨に撃たれて高尾は笑う。至極、心の底から嫌そうな顔をして、緑間も安全な屋根の下から飛び出した。一瞬でずぶぬれになる髪の毛と制服。致命傷。眼鏡は水滴で曇り、滴るしずくを気持ち悪いと思うまもなく、全て雨がさらっていく。

「いえー、しんちゃんもずぶ濡れー」
「ふざけるな。帰るぞ」
「俺が台風になったら真ちゃん台風の目になってね」

走り出した緑間に並んで走る高尾の、その言葉の意味を三秒ほど考えて、「いや、意味が全くわからない」と緑間は告げた。実は俺もわかってないと高尾が真面目な顔で頷くので思いっきり頭を叩く。でも俺の目だぜ俺の! 鷹の目!! と騒ぎ立てるので、いやそれは台風の目なんじゃないのかと緑間は呆れた。発想が突飛すぎて全くついていけない。走る足元で水たまりを跳ね上げる。泥が飛ぶ。なんだ、俺は台風の目にシュートを決めれば良いのか、とやけくそで言えば、それいいね! と高尾は笑う。台風の目に向かってスリーポイント!

「台風になってもバスケやってる俺たちってすごくねぇ?!」
「もうお前ちょっと黙るのだよ!」

台風の一部のようにずぶ濡れになりながら二人は走る。急いでも意味がないほど濡れているけれど、台風に対する礼儀として二人は走る。見上げれば一面灰色の雲。雨が目に入り込みそうになってこらえきれず正面を見る。このような天気で外にいるのは二人だけだった。鞄の中のプリントも恐らく全滅だろう。そんな未来すらも愉快に笑いながら高尾は、自分の隣で不機嫌を丸出しに走る男に叫ぶ。

「俺たちの可能性って無限大!」
「お前の可能性には人外まで含まれているのか!」
「ねぇ真ちゃん!」
「なんだ馬鹿尾!」
「スリー撃ってよ!」
「はあ?!」
「スリー!」

何を馬鹿なことを言っているのだと思えど、どうやら高尾は本気らしく、ほら真ちゃんパス!と見えないバスケットボールを緑間に投げてきた。この茶番に付き合う道理などひとつもなかったけれど、ここまできたらやけくそだと、緑間には珍しい自暴自棄な気持ちで彼は見えないボールをキャッチする。そうして、どこか遠くにあるであろう台風の目へ向けて、雨粒と空気のボールをシュートした。こんな空の下でも崩れないフォーム。
一体全体なんの意味があるのか緑間にはさっぱり判らない。いや、正直に無意味だと認めてしまたほうが良いのだろう。シュートのために止めた足からまた走り出そうとした時、高尾がよく響く声で言った。

「ゴール!」
「……は?」
「見えたぜ真ちゃん!台風の目に華麗にゴール!」
「何を言っているのだよお前は」
「俺の目には見えたぜ!」

ぐっと親指を立てる高尾の頭をもう一度叩いて緑間は今度こそ走り出した。少し遅れて高尾が並ぶ。この茶番になんの意味があるのか緑間には判らない。どうして付き合ったのかも判らない。けれど緑間は高尾のほうったボールを無視しないことを選んだし、彼と一緒にずぶ濡れで走ることを選んだ。他の沢山の選択肢の中から緑間はそれを選び取った。そういった選択の先に今の緑間が存在して、その隣に高尾がいた。それはおそらく、一人自分のためだけに柔らかく悲しい音を生み出していた幼い緑間には考えもつかなかった、うるさい豪雨と明るい二人の和音。



***



「いやー、なんつか、二人して風邪ひいたってバレたら先輩にぶっ飛ばされそう」
「…………」
「ま、楽しかったけど!」
「二度と付き合わないのだよ」
「あ、見てよ真ちゃん!あれ!」

どこまでも冴え渡る青空の下、水たまりに映る二人。見上げれば雨粒と空気で決めたシュートが虹を描いた。







未来の残響
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