世界を征服したら、キスがしたい。
赤司のその言葉で、緑間は沢山のことを諦めた。医者になることだとか、真っ当に勉学に励むことだとか、空の青さに微笑むことだとか、蒲公英を愛でることだとか、誰かと笑い合うことだとか。そういった、日々のよしなしごとを、捨てた。
その決定を下したのは緑間であり、例えその決定を下さざるを得ない状況を作り出したのが当の赤司だったとしても、そのことで緑間が赤司を攻めるつもりはない。緑間真太郎という男は、愚直なほどに自己を律していた。自分の体の輪郭を、見失わない男だった。ここから向こうは他人、この内側は自分。そうして、自分のことだと認めたものに関しては、一切合切の責任を取る男だった。

「真太郎」
「なんだ、赤司」
「今日の晩は遅くなるから先に食べていてくれ」
「判った」
「ひとりきりの食事というのも味気ないだろうから、誰かと食べてきてもいいぞ」
「いや、問題無い。ここで食べる」
「……そうか」

ここ、というのは赤司の住む邸宅であり、緑間は現在二階の角部屋に住んでいる。
他に住んでいるのは赤司本人と、昔から赤司付きだという老爺一人である。都会から少し外れたところにある、二階建ての彼の邸宅。大学生が持つにしては仰々しく、世界征服を行おうとする男にしては侘しい住まい。けれどこの静かさが持ち主本人を表しているようで、緑間は特に気にしていない。最高級品だけで揃えられた空っぽの部屋なんて、彼以外の誰に扱えるだろう。
二人とも大学には通っている。緑間もここから通っている。別に自宅から通えない距離でも無い、むしろこの赤司の邸宅の方が若干遠いにも関わらず、緑間はここに住み、基本的には赤司と同じものを食べ、同じ空気を吸って生活している。
それは、緑間が望んだことである。



「僕はね」
「なんだ」
「お前を殺すことになるかもしれないと思っていた」

二人で住むようになって一週間ほど経った頃、マトンを綺麗に切り分けながら、赤司はぽつりとソースの上に言葉をこぼした。同じく付け合せを頬張りながら、緑間は心底呆れ果てていた。緑間真太郎に殺される、ではなく、あくまでも自分が緑間を殺すと言ってのけたのである。赤司は緑間に殺されかねないことをした。そのことを赤司は理解している。理解した上で、この男は決して、自らを殺すことはしないのである。そんなところですらも、勝利の精神は細胞に染み付いていて、死すら彼に許さない。

「……お前を殺そうとした俺を、ということか」
「そうだ」
「もしも俺がお前を殺そうとしたら、お前は俺を殺したか」
「殺しただろうね」
「だが俺は殺さなかったろう」
「ああ」
「ならそれが答えだ。昔の感情などどうでもいい」

緑間の最期の言葉だけは、自分に向けた物だった。自分に言い聞かせるためのものだった。そんなことを目の前の帝王は、生まれるよりも前に理解しているのだろう。優雅に口をぬぐったナフキンに、染みは一つもついていなかった。



その時と同じ場所で、緑間は一人黙々と食事を続けている。これは、緑間が選んだことである。赤司を選ぶと決めた時に、彼は、たくさんのことを捨てたのだ。涙のように垂れる藤の花だとか、燃える新芽の光だとか。
愛した人との、思い出だとか。

スプーンを運ぶ手が一瞬止まった。その瞬間に一滴落ちて、テーブルクロスに醜い染みを作った。それは彼の目の前でどんどんと広がり、視界を飲んで過去を見せつける。例えば、駆け抜けたバスケットコートだとか、スポーツドリンクの青いラベルだとか、ラッキーアイテムのためにかきわけたひまわり畑だとか、屋上で二人並んで見上げた紫金の夕焼けだとか、彼の瞳に映った、自分の影だとか。



赤司の一族によって運営されるグループが、強引とも取れるほど急に、他社を買収して拡大を始めた。緑間の家は医院だったため大きな影響は受けなかったが、普通のサラリーマンを父に持つ高尾の家は、ある日大きな衝撃に見舞われた。父の所属する会社が赤司のグループに買収され、人員削減のためにリストラを余儀なくされた、と青い顔で告げた高尾の目は未来への不安で揺れていた。彼は私大への進学を決めていた。奨学金を貰えればなんとかならないことはない。けれど受験を控えた妹を抱えて、そんな悠長なことを言えないことは、高尾自身が判っていた。

「ごめん、真ちゃん」
「高尾」
「俺、もう一緒にラッキーアイテム探しに行けねえや」

その日の夜に緑間は赤司に電話をかけた。その時まで緑間の心の内にあったのは、なんとかして彼の家を助けてやりたい。それだけだった。丁度東京に出ているという赤司に、翌日の早朝に会った緑間は開口一番告げた。お門違いなのは判っている。けれどお前の力で、どうにかあいつの家を助けてやれないか。

「そうだね、真太郎、それは僕に頼むのはお門違いだ」
「ああ、判ってる、だが」
「あそこの会社の買収を決めたのは僕だからね」
「な」

ついでに言えば、リストラする人員を決めたのも僕だ。
淡々と、珈琲を口に運びながら告げる赤司に、緑間は呆けることしかできなかった。何故、そんなことを。やっとのことで口に出した言葉を、赤司は場に不似合いな言葉で掬う。

「赤司グループは既に世界有数の企業だけれど、それで満足なんてしていない。ありとあらゆる物の頂点に立つことが僕らの仕事だ」
「それで、何故」
「遅かれ早かれあそこは取り込んでいたよ。中小に強いネットワークを持っていたからね。ただ、そうだな、彼の父君を切ったの理由は、お前だ、真太郎」
「俺?」
「僕は全てを奪っていくよ。それはお前からも、他のキセキ相手でも、容赦なく、全て。だから一番最初に選ばせようと思った」
「なに、を」
「僕のもとに来い。真太郎。僕は全てを奪うけれど、僕の下にいれば、それはお前が全てを手に入れるのと同じことだ」

ふざけるな、と、そう叫ぶには、緑間はあまりにも傷ついていた。その点で彼は、至ってまともで、真っ当な、ただバスケが天才的にうまい、一人の高校生に過ぎなかった。

「お前は、そうやって、世界を、手に入れて」
「ああ」
「それで、その先に、お前は、どうするんだ」

ようやく絞り出した声に、赤司は首をかしげた。その仕草さえも酷く洗練させていた。
そうだな、世界を征服したら。



緑間は一人で食事を続ける。テーブルクロスの染みは醜く、思い出だけは酷く甘い。
あの時に緑間は全てを捨てる決意をした。全てを捨てて、赤司のもとへ行くと決めた。そう決めたのは緑間自身だったから、彼は他の誰とも食事を取らない。誰とも色を共有するつもりがない。それが緑間の決意だった。例え赤司自身が許そうと、緑間がそれを許さなかった。彼は、そんな生半可な覚悟で、世界を捨てたのではなかった。赤司が全てを手に入れるというのなら、彼は全てを手放す必要があった。
赤司を殺さない代わりに、緑間が決めたことだった。
殺したって、良かったのだ。そうして殺されたって、構わなかったのだ。
もしも赤司がその台詞を、少しでも冗談めかして言ったのならば、少しでもそこに感情を混ぜていたのならば、きっと緑間は捨てなかっただろう。夜の闇の静けさだとか、薄紅の桜の舞う姿だとかを、きっと彼は捨てなかっただろう。
けれどそれを発した時の、赤司の顔が、あんまりにも幼かったので、緑間は決めたのだ。本当に、彼は、キスをするには、世界を一度、征服しなければならないのだと、そう信じているのだと悟って。
そうしてそれを見捨てるには、緑間はあんまりにも傷ついていたので。

ああ、赤司、お前は、知らないのか。
世界を征服しなくとも、愛する人とキスを交わすことはできるのに。
ただそこに互いさえいれば、交わす舌さえあれば、他には何もいらないというのに。
自分と他人の境界も無くなるような、途方もない熱を、赤司、お前は、知らないのか。
それを知らないお前は、きっと、いつまでも世界には届かない。












二階の角部屋で、緑間はよく夢を見る。真っ白いシャツと緩いズボンだけを身にまとって、橙色の空に落下していく夢を見る。はためく服が肌をなでて、服の隙間を通り抜ける薫風があんまりにもさやかで清らかなので、彼は捨てたはずの微笑みと共に空に落下していく。
世界を征服したら、空を飛びたい。
緑間真太郎の夢はいつも、真っ赤な夕日に塗りつぶされて終わる。それは彼が望んだことなので、彼は今日も、世界が征服され尽くすのを待っている。






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