ガラスのライオン










タクシー呼ぼうか?というマネージャーの申し出を、まだそんな遅くないっスから、と黄瀬は笑顔で辞退した。スタジオを出ればもうすっかり夜は更けて、オフィス群とそのビルから漏れる明かりが夜空を隠す。梅雨の時期には珍しい晴れ間が覗いた爽やかな一日だった。けれど太陽の光を浴びることなく、代わりに一日中撮影用のライトを浴びるだけで終わってしまったと、彼はホンの少し残念に思う。仕事終わりの、少し固まった筋肉をほぐすように、うーん、と思い切り伸びをして黄瀬は駅へと向かった。夜風はほんのりと湿って柔らかく彼の肌をなで上げる。肌寒い、と、涼しい、の中間をいくような、薫風だった。

会社員の帰宅ラッシュよりも少し遅い時間なのだろうか。思っていたよりも駅は空いていて、座ることは叶わないまでも、悠々とつり革を二つ掴んで黄瀬は窓の外に流れる景色を見つめる。光の反射で、夜を背景に映り込むのは自分ばかりだった。
きっと、今日、外で、バスケをしたら、楽しかっただろう。
それは彼の素直な感想だった。モデルの仕事が嫌なわけではない。楽しいと思っているし、勉強になるし、自分に向いていると感じている。この仕事をしていて、普通では見られないような沢山の美しいものを見ることができた。その経験はかけがえのないものだと確信していた。
黄瀬は、美しいものが好きだ。それは決して、見目だけを指すのではない。行動や、言葉や、性格や、景色や、物や、シチュエーションや、あるいは世界の何もかも。黄瀬は美しいものが好きだ。そして彼にとって美しいということはそのまま、格好良い、と同義だった。美しいものは格好いいし、格好いいものは美しい。特に声高に主張することはないが、主張しても馬鹿にされるだけだと分かっているが、彼はこの思想が正しいと確信を持っていた。
電車を降りて、人もまばらな駅の階段を降りる。薄汚れた階段と、白く光る蛍光灯。そぞろな足取りで踏み出す足元にはタバコの吸殻。これだって、きっと、美しいのだと黄瀬は思う。

(タバコをポイ捨てするっつーのは、かっこわりいけど。)

けれど、用を失って無造作に捨てられたそのタバコの吸殻が、風のままに転がるその姿は、やけに寂しく、切なく、そして一種の美しさを彼に感じさせる。これは美しいものだと黄瀬の中で何かが告げる。ただこの気持ちをなんと表現すればよいのか判らない彼は、少し困ったように首を傾げて、それを拾い上げてゴミ箱へと捨てた。

(緑間っちとか、赤司っちとか、頭良い奴らだったら、こんな時なんて言えばいいのかわかんのかなー)

少し考えて、頭の良さまでコピーできたら苦労しないっスね、と彼は結論づける。通り抜けた改札口が彼の後ろで音を立てて閉じた。



黄瀬はよく仕事場の人にこう言われる。「かっこいいね」「元気だね」「本当に明るいね」「いつも楽しそうだね」。これが、バスケ部の面々となるとこうはいかない。「顔だけだろ」「うっせえな」「お前本当馬鹿だな」「うっとおしい」。中学のときから今に至るまで、少し親しくなるとこうである。一見すればただの悪口でしかないが、それが信頼と親しみから来ていることを黄瀬はしっかりと理解しているので決して凹んだりはしない。そう、黄瀬は馬鹿だけれど、自分で自分のことを、言葉を知らない馬鹿だと理解しているけれど、けれど決して、人間として間違ってはいないと信じていた。人として、馬鹿ではないと思っている。頭が良くて馬鹿なのって、それこそ緑間っちとかだよな。そう、本人にばれたら脳天スリーポイントを免れられないようなことを、黄瀬は笑顔を含んで考える。
頭も良くて、人としても出来ている人なんてものは、それこそ奇跡じゃないかと、高校に入るまで黄瀬は思っていた。少なくとも中学まで、彼の周囲はどちらかしか持っていなかった。頭がよければ何処か抜けているし、人として出来上がっている奴は結構馬鹿だった。世の中うまいことできてるなあと、当時の彼は思ったものである。それはいささか乱暴に過ぎる先輩によって見事に覆されたわけだが。
脳裏に一人の人物を思い浮かべて、今まで決して悪い気分では無かった夜の道が、急に物寂しく悲しいものに思えてきた。彼にとって、笠松というその名は、憧れと、尊敬と、親しみと、輝きと、そしてそれらで消すことの出来ない染みのような悲哀を彼にもたらす。いや、この感情は悲しいではない。悲しいではないけれど、黄瀬は他に表現の仕方をしらないから、そう言わざるをえないのだ。

(なんて、言えば、いいんだろう)

黄瀬の疑問に、夜は答えてくれなかった。向かいから早足で歩いてくるサラリーマンの靴音が彼のことを嘲笑っているようだ。いつの間にか風はやんでいる。
黄瀬は、美しいものが好きだ。だから、自分もそうあろうと思ってきた。そうして美しいものを極めていけば、きっと理想の自分に近づけると、そう思っていた。蝶のように軽やかに、鹿のように優雅に、水のように涼やかに、陽だまりのように穏やかに、道のように堅実に、正三角形のように整然と。美しいものから美しい部分を取り出して飲み込んでいけば、美しくなれるだろうと。
そうやって成長してきた自分のことを黄瀬は認めている。自分で自分をこき下ろしたりなどしない。自分が努力してきたことを紛れもない自身が知っている。ただ、笠松という、一人の、たった一人のその存在で、黄瀬はその自分のありように、少し疑問を抱くことになった。
笠松は完璧だ。頭が良くて、人として大切なものを全部持っている。その姿はとても美しくて、だからとても格好いいと黄瀬は思う。過大評価が過ぎると、人は笑うだろうか。けれど黄瀬にとっては、まぎれもない本物だったのだ。完璧に出来上がった、本物。欠点すらも美しく見えた。
それと比べて、自らの美しさは、何か、ちぐはぐではないかと、彼はそう思う。いろんなものからいろんなところを取ってきてしまったから、結局何もかもバラバラで、アンバランスで、不安定なんじゃないかと。ウグイスの声とウサギの耳と人の手と豹の体。そんなもの決して美しくないんじゃないかと。

(自分の見た目が嫌いなわけじゃない。ってか好きだ。)

自分の体が嫌いなわけじゃない。好きだ。馬鹿な頭も、単純な性格も、嫌いじゃない。嫌いにならないように磨き上げてきたし、そうしてきた自分が好きだ。けれど彼は自分への違和感をぬぐい去れないでいる。これは、本当に、正しい自分の姿なのか。
中学生の時、ずっと、黄瀬の目標は追いつくことだった。例えば彼のように猛々しく、例えば彼のようにスマートに、彼のように堂々と、彼のように高々と、彼のように滑らかに。追いつくことばかりが目標だったから、追い抜かすことを忘れてしまったのではないかと黄瀬は思う。自分で自分を切り開いていくことをサボっていたんじゃないかと。
きっと笠松はサボらなかった。最初から最後まで自身と向き合い続けた。だから今、彼はあんなにも格好いい。最初から最後まで、笠松は笠松のまま堂々と存在していた。けれど、じゃあ、彼の全てが格好よくて美しいからといって、彼の全てをコピーしたとして、自分は完璧に美しい存在になれるのだろうか?自分は笠松になるのだろうか?黄瀬の中でその答えはすぐに導き出される。絶対にノーだろう。
頭の中に思い浮かべたのはキメラだった。ゲームや漫画で登場する、合成獣。自分はそれではないかと、嫌な妄想がよぎるのを彼は振り払う。

(なーんかうじうじしちゃって、まあ。オレも夜でセンチメンタル!なんて)

しかし茶化して考えてみても、思考はどんどんと沈んでいくばかりだった。自身でも持て余すような感情に、黄瀬は戸惑わざるを得ない。このように考え込むことは得手ではないし、そしてそれは彼にとってあまり“格好いい”ことではなかった。

(あー、今のオレだっせぇ)

一人夜道を歩きながら、彼は苦々しい顔を隠そうともしなかった。視線の先に続く町並みはいつもどおりの姿を晒すだけである。風はまだ戻ってこない。マンションの窓辺に見える取り込み忘れた洗濯物は、はためくことなく主人の帰りを待っているのだろう。その穏やかな日常風景の中で彼の足取りは重かった。誰が見るわけでもない黄瀬の姿を彼自身が見守っている。どうも、具合がよくないと。
物に美醜があるのならば、行為にだって勿論美しい行為とそうでない行為が存在する。黄瀬は、自身にとって美しい行為を心がけてきた。例えば、褒められたら素直に喜ぶとか、嬉しかったらお礼を言うとか、凄いなあと思ったらすぐに褒めるだとか。そういう些細なあれこれである。他人にとってどうかは知らない。しかし自分に恥じることのない行動をするべきだと、黄瀬はそう考えている。世の中に正解なんて無いけれど、その中で自分が最も美しいと思う行動を選ぶべきなのだと。
今の自分は、格好良くない。最低ではないが、格好悪い。そう彼は認識する。最低ではない。彼の美学に基づいて言えば、もっとも最低なものは暴力だった。今の彼はただ勝手に落ち込んでいるだけで、誰かに、暴力を、振るった、わけでは、ない。いや、これは自らへの暴力だといえるのだろうか。黄瀬自身がそれを判断することはあまりにも困難だった。暴力は、最も、格好悪い。格好悪くて、無様で、卑劣で、下衆な手段だ。それが彼にとっての思想だった。

(……だから、オレは、知らなかった)

容赦のない蹴りが、そのまま親愛に繋がっていることなんて、乱暴に叩かれた頭は、思い切り撫でられたのと同じ意味になるだなんて、彼は考えたことがなかった。彼にとって、美しさと醜さは決して同伴することのないものだったのである。
それをすべてひっくり返していったのが笠松だった。籠められた好意のその一つ一つが優しかった。一つ繰り返すたびに信頼が深まるような、そんな錯覚すら覚えた。
そしてそのことを自覚した時、今まで黄瀬が形成してきた価値観は針の穴が開き、ぼろぼろと崩れだしたのである。美しいと思っていた物が美しいとは限らないように、醜いと思っていたものが醜いとは限らない。磨き上げられた床こそ美しいと思っていた。けれど、デコボコなコンクリートだって、よく見れば、細かな砂と小石を含んで、輝いているじゃないか?塵一つ無い世界が美しいと思っていたけれど、一つ転がる煙草には言葉にできない感傷が含まれているじゃあないか?

帰路の途中、電車が走る高架線の下で黄瀬は立ち止まる。頭上にはコンクリートが敷かれ、やけに眩しい電灯が周囲を照らしていた。取り出した携帯電話から電話帳でカ行を呼び出す。そうして表示された名前を見て、それ以上の行動を止めた。いまや彼にはわからなくなっていた。美しい行動が。はっきりと自らの内に確立し、それに基づいてコピーしてきた美しさの示準が、ずれてしまった。美しいものがわからない。
彼にはわからなくなっていた。焦燥のまま、訳もなく声が聴きたくなったと電話をかけるべきか、全て飲み込んでまたこの道を一人帰り始めるべきなのか。
素直に行動するべきではないかと自分が言う。一人で解決しろと自分が言う。どちらの声に耳を傾ければ良いのか判らないまま、彼は携帯を握りしめて立ち尽くす。
彼の頭上を、二本の電車が通り過ぎた頃だろうか。彼はようやく動き出した。足を、動かし始めた。帰り道へ。この夜の葛藤を、無かったことにしてしまおうと。

その瞬間、夜道をつんざくような音が聞こえて黄瀬は思わず飛び上がる。その音の発信源は先ほどまで握りしめていた携帯電話だった。マナーモードにしていた筈なのに、と考えて、そういえば朝目覚まし替わりのアラームを止めてから変えていないことに気がついた。先ほどの電車の中で鳴らなかっただけ幸運である。このようなところが、抜けている、馬鹿だと言われてしまうのだろうなあと気軽に携帯を開いた。そして気軽に開いたことを後悔した。そこに表示されている名前に、彼は自身の表情がこわばるのを感じる。なんだってまた、このタイミングで。

「……もしもし」
『ああ、出たか。今大丈夫か?』
「大丈夫っス。笠松先輩」

これ以上ないほど最高のタイミングだった。こういうところがこの人はずるいのだ。歪んだ顔で黄瀬は思う。欲しい時に、諦めた瞬間に寄越すだなんて、格好よすぎて嫌味なほどだった。
人っ子一人いない夜道で、道路脇のフェンスにもたれかかりながら話を聞く体制に入る。高架下はコンクリートに挟まれて声が反響する。この場にいるのは彼一人きりなのに、まるで何人かの己が姿なく存在しているかのようだった。

『お前、早川とバッシュ間違えたろ』
「え、嘘、マジっすか!」

必死に記憶を手繰り寄せてみれば、確かに前回の練習の後、更衣室の床に置いてあった袋を確認せずに取った気もする。実際にそんなことがあったかどうかは判らない。もしかしたらベンチの上にあったかもしれないし別のところで入れ替わったのかもしれない。真実は判らないが、黄瀬の中で生まれた記憶は妙な確信を持って彼のミスを咎めた。

『今日練習しようとして気づいたんだと。まあお前ら靴のメーカー一緒で袋も一緒だからな』
「あちゃー、すんません、明日返します」
『応。別にお前だけが悪いわけじゃねぇよ。とりあえず明日糞ほど働け』
「悪くないのに働かすんスか!」
「“だけ”じゃないって言っただろうが。悪くない訳ねぇだろ」

先輩今日も辛口すぎっす。そう告げた言葉はいつも通りの調子だった。調子だった、筈なのに、携帯の向こうに僅かな沈黙が広がる。まさか、と黄瀬は焦った。何か、自分の中のわだかまりが伝わってしまったとでもいうのだろうか。そんな筈は無いと思う。彼は取り繕うことが下手ではない。無駄な心配をかけることは彼の美学に反するし、相談するなら正面から正直に行くのが彼の常だ。だから、隠そうとして隠しきれないことなど無かった。電話口で、バレる筈など。

『……おい、何があっためんどくせぇ』
「へ?!いやいやいや、何もないっすよ!」
『そうかよ。で?』

なんでだよ、そう叫びだしそうになる自身を黄瀬は必死に堪えた。なんであんたそんなに完璧なんだ!
まさかそのようなことをいえるはずもなく、彼は隠すことをあきらめる。

「……いや、先輩コピーしたらどうなるかなって」

彼はあきらめて、そうして遠まわしの質問をした。それは全然、格好良くない行為だった。それでかまわないと彼は思った。黄瀬の予想では、笠松はここで呆れて、気持ちわりいこと言うな馬鹿、だとか、やめろふざけんな、だとか、そういう言葉を吐くはずだった。それが格好いい反応なのかどうかはおいておくにしても、それはとても彼らしい言葉のはずだった。彼がそう言えば、自身が間違っていることを素直に認められるような気がしたのである。完璧な彼が、彼のコピーを嫌がれば、醜いキメラは思う存分落ち込むことができるはずだった。

『は?俺のコピー?』
「あ、そ、そうっす」
『おー、やれやれ。そしたらてめぇも少しはまともになるだろ』

あまりにも想定外のセリフに、黄瀬はぽかんとしてしまった。だいたいなぁ、テメェは馬鹿すぎんだよ……。電話口の向こうで続く説教は彼の脳まで届かない。俺、コピーしちゃっていいんすか。呆然と呟いた言葉に、やりゃあいいじゃねぇかと乱暴な言葉が投げられる。俺格好悪くないっすか、と聞けば、お前が格好いい瞬間なんてあってたまるかと笑われた。黄瀬は知っている。一見すればただの悪口にしか見えないような、その言葉に隠された、信頼と親しみを。
唐突に黙り込んだ彼に対し、通話画面の向こうで笠松は疑問の声をあげていた。おい、黄瀬、どうしたんだお前。おい黄瀬お前無視してんじゃねぇぞ!!
この人は、気がついていないのだ。何気なく口に出された、ほんの些細な一言が、今一人の馬鹿を救ったことなど。

「はいはい、聞こえてるっスよ!」

一人きりの夜、ガードレールの下、明るい声をあげた彼の髪を、風が乱暴になでた。



***



無事に早川とバッシュを取り替え、練習に励む黄瀬を見ながら、笠松は一つ息をついた。昨晩なんとなく様子がおかしかったが、どうも杞憂だったらしい。黄瀬の動きはいつもどおり、むしろ少し良いくらいで、昨日の懸念が無駄だったことに笠松は若干の苛立ちを覚える。何もないならそれに越したことはないのだけれども。
にらみつけるような笠松の視線に気がついたのが、シュート練習を中断して当の本人は暢気に彼の方へと近づいてきた。

「先輩!」
「あ?なんだお前練習しろよ」
「先輩やっぱかっこいいっス!」
「はぁ?」
「そんだけ!」
「そんだけ、じゃねぇよ意味わかんねぇだろうが」
「へへ、素直に言うのが俺の美徳っスからね!」
「てめーのそれは素直じゃなくて馬鹿正直ってんだよ」
「うっわーひでぇ!褒めてんのに!」
「てめぇに褒められてもしょうがねぇ。おら、とっとと練習もどれ。外周増やすぞ」
「はーい」

トレーニングを増やされるのは勘弁と、彼は慌てて練習に戻った。ほどなく1on1が始まったのを見て、笠松は自身も加わるべくアップを始める。彼の視界の中、先ほどまでふざけていた黄瀬の目が真剣な色を帯びたのを見てとって、笠松は軽く笑った。どうやら、本当に、無用の心配だったらしい。黄瀬の持つ軽々しい雰囲気は霧散して、殺伐、と言っても近しいような厳しさを帯びる。その瞬間のその目を笠松は認めていた。何もかもを飲み込んで己のものにせんとする、獅子のような輝く瞳。笠松はそれを、美しいと思う。

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