嫌いだった



***



ジーッ、ジーッと鳴く蝉の声が緑間を取り囲んでいた。アスファルトから湯気が立ち上るような、うだるような夏の日。高尾と緑間は外周を終えて、体育館の入口に座り込んでいる。コンクリートで出来た階段は、長い年月のうちに端が欠けて、雨の模様がまばらに染み込んでいた。灰色のそれは陽射しに熱されて、ジャージ越しにふれても火傷をしそうなほどである。それでも立ったままでいるだけの余力は無く、緑間は一番上の段に座り込んだ。吐く息は熱く、滴る汗すら生温い。
酷く暑い、夏。
学校は既に夏季休業に入り、校舎にはちらほらと教師の姿。校庭では砂埃を上げて運動部員が銘々の活動に勤しんでいる。部活動に力を入れている秀徳高校では勿論三年生も部活がある。しかし流石に夏休みに朝から晩まで、というわけにはいかず、バスケ部の練習は午後からだった。大坪や宮地、木村、他の三年生たちは必死に受験勉強に勤しんでいるのだろう。けれど二人は示し合わせた訳でもなく、午前八時の体育館で出会った。そうしてそれから、まだ熱波が世界を包み込む前に走り出した。アスファルトが熱を帯びて、スニーカーの底が軋む。目の奥で太陽が弾ける。何色も帯びない光が、眼球を駆け巡る。体育館に戻ってきたのは、緑間が四分早かった。
頭から被った白いタオルは柔らかく、嗅ぎなれた柔軟剤の匂いがする。目を閉じていても、タオルに遮られていてもなお判るほど真夏の日差しは強い。校舎の向こうにいるはずの太陽の光が、じりじりと、剥き出しの脚を焦がしていく。荒かった自分の息が段々と落ち着いていくのを緑間は確認していた。蝉は相変わらず、やかましく鳴いている。

「永遠に続けばいいのに」

ぽつり、とこぼされた声は、誰も予想しなかったほど静かに空間に染みた。空気を震わせる波紋。その瞬間、全ての喧騒が彼らの周りから遠ざかって、二人、夏から取り残されたようだった。緑間は被っていたタオルを首にかけて高尾を見つめる。緑間よりも下の段に座っているため、黒髪しかみえない。汗で濡れた黒髪。左巻きのつむじ。どんな表情をしているのか判らないまま、緑間はぼんやりと高尾の声を聞いている。

「このまま、ずっと、ずーっと」

緑間の方を振り返ることなく、高尾は声を落とす。うつむいているわけではないが、その視線がどこに向いているのか、緑間にはうかがい知れない。

「真ちゃんはそう思わない?」

その問いかけに、緑間は首を傾げた。まさかこのタイミングで質問がくるとは思っていなかったのである。そうして、彼は、高尾が言っていることの意味が判らなかった。永遠に、と高尾は言った。けれどそれが、いつ、どの瞬間の、何が永遠なのか。具体的なものを彼は一つも提示しなかったのだ。振り返らないまま、高尾が微かに笑った気配がした。判らないかな、と笑み混じりの声だけが届く。相変わらず顔は見えないが、その声が、随分と明るく、そうしてこの夏に似合わないほど寒々しかったので、緑間はそれにどう返せばいいのか判らない。無言のまま次の言葉を待った。蝉の鳴き声が世界を三周した頃、高尾は手を背後の階段に乗せてのけぞった。眩しすぎる空を見上げた。そうだなあ。なんて言えばいいかな。

「今、俺たちは試合中だ、」
「点差はそうだな、三点差。残り時間は一分で、ちょっと気を抜いたら逆転される。相手はまだまだくらいついてくる。俺たちの息はもうあがってて、相手だって、そう。お互いにいつ倒れたっておかしくない。脚は震えてるけど、まだ走れる。まだまだ走れる、」
「俺の目には全部が見えてるし、お前の目はゴールを映してる。ボールは俺の思った通りの位置に来て、俺が出したボールはお前が求めた場所に行く。光よりも早く俺たちのパスが繋がって、流れる汗は目にしみて少し痛い」
「必死な顔で相手が手を伸ばす。もしかしたら届くかもしれない。間に合わないかもしれない。みんな、今、そのボールのことしか考えてない。世界にあるのは自分とボールの二つきりで、お前は、そのボールを打撃ち上げる。どこまでも高く、誰よりも高く撃ち上げる」
「そんな瞬間だ、誰もがみんな、追いかけてる。お前だって、追いかけてる。全員で、何かを、追いかけて、心臓は破裂しそうで、酸素は足りてなくて、ライトは眩しくて、床は滑って、そんな瞬間」

緑間も、高尾の視線の先を追うように空を見上げる。青い。どこまでも濃く、青い。世界中の夏を全て頭上に集めて、ありったけの青をこぼしたような空。太陽は見えないけれど、直視できないほど空は眩しかった。蝉の声。頭の中まで茹だるようで、もう体はこの夏にぐずぐずに溶かされている。腕をつたう汗だけが、最後の境界線のようだった。

「そんな瞬間が、永遠に続けばいいなって、俺は、思う」
「いつだって、終わりのブザーが鳴らなければいいなって、思ってる」

ブザーが鳴らなければ、試合は終わらないだろう。試合が終わらなければ、勝つこともできないだろう。ブザーが鳴らなければ。

「真ちゃんは、そう思わない」

緑間が青空から目を戻した瞬間に、高尾は振り返った。そこに浮かんだ表情に、緑間は名前を付けることができない。黒々とした瞳の奥に見える青空と太陽の残滓を覗き込んで、静かに吐き出す。



「思わないな」






真っ暗な中で、自分を見下ろしている。神のような視点で、かつての自分を見下ろしている。光など一つもないのに、そこに浮かぶ自分の姿は鮮明だった。今となっては懐かしい学生服は、おろしたてだとひと目で判るほど清潔だった。折り目はただしく、裾のほつれもなく、ボタンはきっちりと縫い付けられている。ああ、これは、高校入学当初の自分だとすぐに理解した。感覚的に、判った。夢だからかもしれない。自分の体はないが、見下ろしている。空気に溶けた目で、かつての自分を見ている。
十六歳の自分。
夢の中の自分は、随分と物騒な顔をして、世の中の何もかもがつまらないとでもいいたげな表情をして、世界を見下ろしていた。そんな簡単に、見下ろせるものでもないだろうに。そんな簡単に、見切っていいものでもないだろうに。自分以外の全てをどうでもいいと、そんな顔をして、口を閉ざしていた。訊ねられない限り答えなかった。訊ねられても、無視をした。固く固く口を閉ざしていた。全てを、見下すような目をして。
ただ、本当は、知っている。自分のことだから、知っている。自分は、ただ、寂しかっただけで、自分は、ただ、その寂しさの名前を知らなかっただけで、それが寂しいという感情なのだということすら知らなかっただけで、いつだって孤独に喘いでいた。孤独の海で、溺れていた。いつだってどこか、帰る場所を探していた。

『ただいま』

その一言を言える場所を、ずっと探していた。探していることにすら、気がついていなかった。






「乾杯」

ジョッキを打ち合わせる仕草も慣れたものだった。高尾と緑間の二人は、向かい合って自分の酒に口をつける。あーー、うめぇ。高尾がごとりと雑にジョッキを置けば、思いのほか勢いが強かったらしい。彼は黒い箸が小皿から落ちて床まで転げそうになるのを慌てて止めた。もう酔ったのか、と緑間が尋ねれば、冗談、と返される。久々に飲めるからテンション上がってるだけだって。
金曜夜の居酒屋は人でごった返していて、案内されたのは厨房近くの、二人がけの小さなテーブルだった。もとよりすんなり入れただけでも僥倖なので文句を言うつもりはないが、ただでさえ標準よりも体格の大きい二人、特に緑間は窮屈そうだった。脚は机の中に収まりきらず、通路側の右足ははみ出して高尾の椅子の横へと伸ばされている。長さ自慢かよ、と高尾が笑えば、仕方がないだろうとどこ吹く風で返された。履きこまれているが、質の良さが判る緑間の革靴が高尾の椅子にぶつかる。それがメトロノームのように一定のリズムを刻んでいるので、どうやら機嫌が良いのは自分だけでは無いらしいと高尾は悟った。もとより緑間も、機嫌が良いのを隠すつもりもない。床は掃除が行き届いているものの、染み込んだ油でよく滑る。酔った緑間が帰りに転ばなければいいと高尾は思った。外は大寒波で裸の木々が今にも枯れて氷になりそうだったが、店の中は熱気が立ち込めて暑苦しいほどである。循環していない空気は時間と共に熱を溜め込んでいく。コートを脱ぐだけでは足りず、高尾は腕まくりをしているし、緑間も珍しくカーディガンを脱いでいた。

「真ちゃんとこうやって酒飲むようになるなんてな」
「どういう意味だ」

チェーン店特有の、味の薄い酒に、塩がまばらな枝豆。そんなものがやけに口に合った。最初に頼んだつまみはなかなか届かない。安い黄色の電球が二人の間に濃い影を落として、酔ってもいないのに顔は赤く見えた。周囲の喧騒は一層騒がしく、向かい合っているにもかかわらず、声を強めに張らなければうまく聞き取ることもできなかい。そうやって、どんどんと喧騒は加速していく。それは高尾と緑間の二人も例に漏れない。

「大人になったなあって」
「まだまだひよっこだろう」
「まあね。でも、高校の時と比べたら、さ」
「もう五年か」
「そうだね。五年だ。俺と真ちゃんが出会ってから」

現在大学三年生。二十一歳。別々の大学に進学した二人は、それでもこうして定期的に会っている。親友だとか、相棒だとかいった言葉をホンの少し踏み越えて、一緒にいる。緑間はそれを一種の驚きの視線で眺めている。まだ、一緒にいる。二人とも変化したが、それでも。そう、高校生だった頃とは、まだ学校という揺り篭の中でいた頃とは、変わったのだ。酒は飲めるし煙草も吸える。選挙権もあるし税金だって払っている。独り立ちしようと思えばいくらでも。高尾の洋服は質が良くなったし、緑間の言動は丸くなった。けれど実際に大人の扉を開いて理解したことは、自分たちがまだまだ子供で、気楽な身分だということだけ。彼らは社会の枠組みの中で、自由だった。責任と義務を背負うようになったけれど、それを間違えても、まだ許してもらえる場所にいた。

「五年間、あっという間だったなー」
「ああ」
「もうあと五年したら俺と真ちゃん、二十六だぜ」
「そうだな」
「二十六かー」
「なんだ」
「結構すぐかな」
「ここまでの五年がすぐだったなら、すぐなんじゃないか」
「そうだね」

高尾は届いた焼き鳥の串を無造作に取る。口に含めば少し固くて、時間経ったやつだな、と以前同じ系列の居酒屋でバイトをしていた彼は呟いた。緑間も残ったもう一本に手を伸ばす。緑間は、はじめ、この大衆居酒屋の脂ぎった味が、冷凍の味が嫌いだった。初めて一口食べた瞬間に、不味いと顔をしかめて全て人に譲ったほどだった。それにも、いつの間にか慣れてしまった。噛んで噛んで噛んで、噛みきれなかった分はそのまま飲み込んでしまう。安い味だった。不味いと告げた緑間に、当時の高尾は笑って告げたものだった。若者らしくていいだろ、と。その時の緑間は理解ができないと首を振ったが、今となってはそれはとても正しい意見なのかもしれなかった。大人になりかけた自分たちに、これはとても、ふさわしいと彼は思う。あっという間に平らげた高尾は、行儀悪く串を噛んでいた。それを緑間がたしなめればあまり質の良くない笑顔を浮かべたので、もしかしたら緑間に注意をされたくて、高尾はそんな幼稚なことをしていたのかもしれなかった。空になった皿と入れ違いにフライドポテトが届いて、油で光るそれに、二人同時に箸を伸ばす。

「二十六ってことは、もう社会人だ」
「お前の就活がうまくいけばな」
「う、それ言うのやめて真ちゃん……」
「事実だろう」
「でもそしたら俺はそんとき、えーっと、社会人、三年目?四年目?そんくらいだよな?真ちゃんは何してるかな」
「俺は、二年お前よりも長いから、研修医二年目だろうな」
「そっかー」

真ちゃんも大変だ。そう言って高尾はからからと笑った。鈴のような、という形容は似合わなかったが、乾いた小石を瓶の中で転がしているような、そういった軽やかさがあった。昔から変わることのない、彼の笑い方だった。その様子を見て、緑間は片眉を上げる。それが緑間の笑顔の形だと、高尾が気がついたのはいつのことだろう。勿論口の端を持ち上げて笑うこともあるけれど、それとは別に、何気ない時に、例えば、高尾の笑顔に同調するときなんかに緑間が見せる表情だった。いつからかは判らないけれど。気がついたら、いつの間にか。

「やべえ、真ちゃんがお医者さんしてるとこ、超想像できる。笑える」
「……想像できるなら何故笑うのだよ」
「や、なんか似合いすぎて?」
「お前にスーツは似合わないな」
「えー、そう?俺結構似合うと思うぜ」

そのまま、二十六歳になった自分達談義が始まる。身長伸びてるかな。もう無理だろう諦めろ。休日はお洒落なレストランとかで食事したりしてるかな。周りをカップルに囲まれてか?絶対浮くよな。浮くだろうな。まあそれでもいいじゃん。いいのか。お互いスーツなら仕事だと思ってもらえるんじゃね。休日もスーツなのか。めんどくさいね。面倒だな。っていうか真ちゃんはスーツ着るのかな。どうだろうな。白衣かな?院内だけに決まっているだろう。真ちゃんは絶対に病院で敵を作るね。俺だってそれくらいうまく立ち回るのだよ。できるかな。お前は上司に気に入られようとして同期に嫌われる。えっ嘘だあ俺絶対にみんなとうまくやるし。それか全員に八方美人すぎて上司の彼女に惚れられて恨まれる。えっマジかよそんなリアルな感じになんの。なる。

「それはやべえな」
「ああ、やべえのだよ」

何が“やばい”のか。判らないままに高尾は笑う。緑間も笑う。今度は、眉をあげるだなんて判りにくさではなく、声をあげて、少し不格好に崩れた顔で、柔らかく笑う。高尾は、相好をくしゃくしゃにして、笑う。思い切り。どの喧騒にも負けぬ程に、思い切り。将来の俺たち、楽しいな。楽しいだろうか。楽しいと、いいな。

「そしたらさ、そんときには、俺と真ちゃんは十年一緒にいることになるわけだ」
「ああ」
「十年かあ」

高尾は伸びをするように上を見上げた。釣られるようにして、緑間もその視線の先を追った。暗い天井には裸電球がぶら下がっており、エアコンの送風口には埃が溜まっている。油や煤の染みがぽつりぽつりと打ちっぱなしのコンクリートに滲んでいた。そこに高尾の求めるいかなるものがあるのか、緑間にはよく判らない。ぼんやりと、暗がりを眺めている。

「ずっと一緒に居られたらいいな」

だから、緑間はその言葉を発した時の高尾の顔を見損ねた。その張り上げるでもなく、呟くでもない、なんてことのない、当たり前のような調子でつぶやかれた言葉は、喧騒の中でやけに静かに緑間の中に染み透った。風のない湖畔に落ちた、一滴の夜露のように、静かに。

「真ちゃんは、そう思わない」

彼が顔を正面に戻せば、真っ直ぐに微笑む高尾と目が合った。居酒屋の熱が、夏を呼び覚ますようだ。緑間の視界に、いつかの青空がよぎった気がした。高尾の向こうに、どこまでも深い青空が見える。思わず数度瞬きをすれば、それはすぐに酔っぱらいの歓声に変わった。彼の目に見えるのはいつの間にか運ばれてきていたサラダボウルと、一番初めに頼んだはずの漬物。
ためらって、迷って、小さな溜息をついて、緑間はようやく答えた。



「判らない」







二十一歳。夢の中の自分は、随分と穏やかな瞳をするようになっている。そうだ、もう、この時の自分は、暖かさを知っているのだ。ただ、それを、失うことを、恐れている。ようやく手に入れたぬくもりを手放すことに怯えて、けれど、手放さなくてはいけない未来を、いつだって見ている。いずれ来るだろうと思っている。いずれ来るであろう日のために、傷つかないための予防線を、必死に張り巡らせている。張れば張るほど、そんなものに意味など無いと気がついて、絶望している。このぬくもりを手放す瞬間が、必ず自分を壊すだろうと知っている。そしてもしも、もしもそれが、自分を壊すほどの衝撃をもたらさなかったら、それこそ、全てが終わった証拠なのだと知っている。
そうして、やがておとずれる明日におびえている。

『じゃあね』

その言葉を口にすることが恐ろしくて、俺は、見ないふりをしている。






「ねえ、真ちゃん」
「……」
「真ちゃん?」

遠くから聞こえてくる高尾の声に、緑間真太郎は目を覚ました。霞む視界は徐々に焦点を結ぶ。どうやら、リビングのソファで眠ってしまっていたらしい。眼鏡は少しだけずれていた。一度外してからかけ直せば、珈琲を差し出す高尾が見える。緑間が受け取ったのを確認して、高尾は向かいに座った。揃いのマグカップに注がれて、立ち上る香りは酷く甘い。
リビングの明かりはついていないが、昼間の日差しは大きな窓から遮られることなく差し込んでいる。毎日欠かさずに水をやっている観葉植物が、その光を反射して黄金に輝いていた。フローリングの上で揺れるひだまりが風の形を取る。一年の中でもあまりない、完璧に調和のとれた空気。

「珍しいね、うたた寝するなんて」
「……夢を、見ていたんだ」
「へえ、どんな?」
「昔の」

新聞を片手に持っていた高尾は、それをゆっくりとローテーブルの上に置いた。暗に続きを促されているのだと悟って、緑間は珈琲を一口すする。苦い。苦いが、心地よい。

「高尾、俺はな、昔、自分のことが、大嫌いだったのだよ」
「あんなに自信満々だったくせに?」
「あんなに自信満々で傲岸不遜で我が儘で自分勝手だったくせに」
「そこまで言ってないのに」

呆れたように笑う高尾に、緑間は僅かに笑って、頷いた。

「ずっと、嫌いだった。バスケに対する云々ではなく、お前のようになれない自分のことが」
「真ちゃん、それは」
「お前のように世界を信じられない自分が、お前のように世界を見ることが出来ない自分が、お前のように、お前のことを愛せない自分が、大嫌いだった」
「なあに真ちゃん、愛してくれてなかったの」
「お前のように、と言っただろう」

俺なりに愛していたさ。
さらりと緑間が言葉を接げば、高尾は少しむせたようだった。それを見て緑間はくつくつと笑う。顔をくしゃりと歪めて笑う。その表情と、笑い声は、ホンの少し、高尾のからころとした乾いた笑い声に似ていた。

「口を開けば、誰かを傷つけてばかりだった。自分が傷つくのが怖かった。臆病だった。そうやって失敗してきた、」
「誰かを傷つけることしかできない自分のことが、俺は嫌いだった」
「それでも、お前が、好きだと、俺に言ってくれるから、俺は、俺のままで、ずっと、ここにいていいんだと、そう、信じてこれた。俺は俺を捨てないでいられた。いつだって、お前が俺に笑いかけた瞬間に、俺は、帰ることができるんだと、そう、信じることができた」
「だから、『ありがとう』」

夢の中で言えなかった言葉を告げて、緑間はもう一口珈琲を飲んだ。満足気な緑間とは対照的に、高尾はぽかんと口を開けて、その姿を見守っている。じわじわと、太陽が肌に染み込むようにその意味を理解したのか、不敵に笑って高尾は返事をした。まるで俺みたいに、沢山話すね、真ちゃん。

「俺が真ちゃんに初めて会ったのは中三だったけどさ」
「ああ」
「真ちゃんと出会ったのは、高一の、春だ」
「ああ」
「ねえ、真ちゃん」
「なんだ」
「おんなじ時間がたったよ」

高尾は柔らかく柔らかく笑う。三十二歳になった二人は、互いの顔を見て、同じ味の珈琲をすすって笑う。苦い味が嫌いだった。甘いフレーバーが苦手だった。そのはずなのに。リビングには、二人揃いのソーサーがある。雑誌のラックも絨毯の模様も、二人にとって丁度良いように存在して、それが当たり前のようになっている。

「真ちゃんと出会わなかった十六年と、同じ時間、俺は、真ちゃんと一緒にいたよ、」
「なあ真ちゃん。五年後を考えてみて。十年後を考えてみて。まだまだだ。十六年には、まだ遠い。俺と真ちゃんが、一緒にいた時間には、まだ足りない」
「じゃあ、十六年後、どうかな。俺たちは、一緒にいるかな。俺たちが出会ってから今日にたどり着くまでの間とおんなじ時間だ。真ちゃんは、それをもう知ってるよね。知ってるから、きっと、信じられるでしょ。十六年は、もう、手の届く場所だろ」
「そしたらその頃にはさ、俺たち、三十二年一緒にいることになるんだぜ。笑っちゃうよな。三十二年。生まれてから今までの時間だぜ?俺がおぎゃーって言ってから、今日、ここに辿り着くまで、それだけの時間ずーっと一緒にいるんだぜ?すごいよな」
「生まれてから今までずっとの間、一緒にいるんだぜ。それって、すごいよな」
「なあ、真ちゃん」

立板に水。そんなことわざがぴったり当てはまるほどに流暢に話す高尾に、緑間は苦笑を深めた。何が、お前のように沢山話す、だ。お前はますます喋るようになっているじゃあないか。そんなことを、口に出しはしないけれど。高尾が笑いながら、僅かに、探るような目をしていることに気がついていたからだ。その瞳の奥に、小さな不安が揺らめいていることに、今の緑間は気がつくことができる。あの時、青空の深さに気を取られて、気がつくことができなかった、高尾の隠していた不安の色。その色に、緑間は覚えがあった。それは、ずっと、自分の瞳の奥に見えていたものだった。

「これからはさ、真ちゃんと一緒にいる時間の方が長くなっていくんだよ」
「俺の一生の中でさ、真ちゃんがいる時間がずうっとずうっと長くなっていくんだ」
「これから先、ずうっと」
「ねえ、真ちゃん」
「信じられる?」


「ああ」


だから緑間は、ためらわなかった。


「信じてる」


その答えを聞いて、高尾は笑った。顔を不格好に崩して、思い切り笑った。ぎこちないその不器用な笑顔は、少し緑間に似ていた。

「簡単だろ?永遠なんて」
「……ああ」
「俺、真ちゃんと一緒なら、永遠なんてすぐだって、ずっと知ってたよ」

嘘をつけ。不安がっていたのは、お前だって同じだろうに。
緑間は笑う。高尾も笑う。二人して、不器用な笑顔だった。その笑顔は、なんだかよく似ていた。そうやって、ゆっくりゆっくり二人が近づいて、高尾の中に緑間がいて、緑間の中に高尾がいて、そうやって、二人、永遠を手に入れたのだった。

「ねえ、真ちゃん、俺と一緒にいて、十六年、どうだった」
「最高だった」

緑間は今さらのように自分の答えに驚く。何時の間に、こんな言葉を素直に口にすることができるようになっていたのだろう。何時の間に、こんな優しい言葉を、自分は、口にすることが出来るようになっていたのだろう。

「十六年だとか、小さなことを言うな」
「真ちゃん」
「これからも、」

こんな、お前みたいな、優しい言葉を、何時の間に。


「ずっと一緒にいるんだろう」


ああ、そんな自分は、嫌いじゃない。








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