薔薇小路の行き止まり





高尾和成は、緑間真太郎のことがよく判らない。この判らないというのは誇張でもなければ嘘でもなく、高尾和成は緑間真太郎という人間について考える時、そのあまりの判らなさに笑い出してしまうことすらある。彼の頭のてっぺんから大地のプレートまで、地球のマグマから彼の薬指の先まで、高尾和成は何も判らない。そのことが彼には面白くて仕方ない。



***



「む」
「どったの真ちゃん」
「……」

不機嫌そうな顔で携帯電話を握り締める緑間の携帯画面を、高尾は遠慮なく覗き込む。そこに写っているのはこの緑色のモンスターが傾倒している占いで、画面には蟹座の運勢が並んでいる。
バスの中は部員の静かな寝息に満ちていて、二人の会話も小声である。起きている者もいるのかもしれないが、皆が黙っている以上大声で騒ぐわけにもいかなかった。そもそも皆、この土日にかけた強行軍の遠征に疲れ果てていた。日曜日の遠征は、翌日の学校が一等厳しくなる。とはいえど平日に遠征するというのは文武両道を謳う秀徳高校ではあまり認められるものでもなく、遠方と練習試合を組む際はこのように休日を丸々潰す羽目になる。それがいやというわけでもないが、月曜日の朝に旧友たちから「なんでそんな疲れ果ててんの」と笑われることは間違いなかった。
それを思えばこのバスで、高尾も呑気に会話を楽しんでいる場合ではなかった。正解は、周囲で寝ているほかのメンバーである。明日は部活が無いとは言えど、一日で回復するような疲労ではない。移動する、というのは運動しているのと同じなのだとかつて誰かが言っていた。それがたとえタクシーに揺られているだけだとしても、気軽に自転車をこいでいるだけだとしても、違う場所に行く、というのはそれだけで信じられないほどのエネルギーを消費するのだと。
『ドラマとかの逃避行でね、逃げてる奴らが疲れちゃうのって、そういう理屈なんだってさ』『今いる場所じゃないところに行くのは、どんな理由でもどんなことでも、めちゃくちゃ疲れることなんだって』
高尾和成が疲れていないかといえば、疲れている。それはもう、疲れている。つい先程までは、彼も周囲と同じように眠っていたのだ。それが何故起きたかといえば彼の隣に座る緑間真太郎がラッキーアイテムを調べるために身動きをしたからであり、何故その身動きで起きたかと言えば、彼が緑間真太郎に寄りかかって眠っていたからに違いなかった。そのことが判っているから、高尾はある種緑間に起こされた形になっていても文句を言わない。寝起きで少し掠れた目をこすって、同じように画面を覗き込んだのである。
四位。
上位三分の一なんだから悪くもないだろうと高尾は少し明るい気分になる。緑間の運勢が良いからといって彼の気分が上昇する要素は何もないのだが、そこはそれ、悪いよりは良いほうが世の中うまく回るに決まっているのである。それに緑間の順位がよければ彼の機嫌は上昇し、隣にいる高尾も過ごしやすいというものだった。
それに何よりも。

「ラッキーアイテムもゲットしやすそうだしさ」

ピンクの薔薇、というその物体のファンシーさは置いておくにしても、花屋に行けば置いてある。いつもラッキーアイテムを探しに走り回される高尾にとって、そこの花屋に行けばそれで良いというのも素晴らしい。この疲れた体で朝から走り回りたくはない。彼らの通学路は、一般に通学路と指定されるところに多いように、広い道路の商店街だ。人が多い方が監視する人間もいて安心、という理論である。確かに、薄暗い路地裏が通学路となっている例を高尾は知らない。そしてその商店街には花屋も一つあるはずだった。

「…………近所の花屋は二十時に閉まる」
「あの通りの?」
「そうだ」

なんでそんなことまで知ってんの、と問えば看板に書いてあるだろう、と緑間は冷たく返した。成程そうだったかもしれない。鷹の目が呆れるな、と言われても、別に常時発動しているわけでもないのだから許して欲しい。そもそも彼は自転車のペダルを踏むことに精一杯で、前を向くことだけに必死なのだ。荷台に揺られてごとごとと待っているだけの緑間とは違う。移動することにはエネルギーが必要なんだぜ、と高尾が笑えば、話の判らない緑間は眉を潜めた。判らないなりに考えたのか、俺も移動しているんだが、という返事に高尾は笑う。その通りである。リヤカーに乗っているだけだって、移動している。バスに乗っているだけだって、移動しているのだ。
しばらく沈黙が続いたが、これ以上高尾が話を続けないのを見てとって、緑間は少し意外そうな顔をした。まだ何か言われると思っていたらしい。普段の高尾なら、確かにそうだったかもしれない。しかし今は、疲れているのである。無駄口を叩く体力だって、実はあまりないのだ。

「そもそもピンクの薔薇はおいていなかった」
「なんか真ちゃんの口からピンクって単語が出ることがおもしれえわ」
「茶化すな」

それでも話が続けば、咄嗟に茶化してしまう自分のことを、高尾は病気かもしれないと思っている。笑っていないと死んでしまう病気。だから自分は、いつも自分を笑わせてくれる緑間のそばを離れられないんじゃないかと、そんなことを真剣に考えてしまうほどに。

「そもそも何故俺は色の名前すら発することが許されないのだよ」
「いや別に許さねえわけじゃねえけど」

むしろなんでそんなに怒ってんのよ。そう言えば怒ってなどいない、と緑間は顔を背けた。確実に怒っている。ピンクが似合わないと言われただけで。女子でもないのに。それが面白くて高尾は笑う。笑うたびに、腹筋が引き連れるように痛いのはここ数日で無茶をして動かし続けたからだ。まだまだ筋トレが足りないな、とその腹から心臓まで駆け巡る痛みが高尾に教える。それでも彼は笑ってしまう。バスの中の静寂を殺さないように、必死に堪えて。生ぬるく、薄い、バス特有の空気が彼らの席の周りだけ僅かに揺れる。

「んで、花屋一つ閉まってるからって諦めるなんてらしくねーじゃん」
「何故」
「なぜって……お前だったらほかの花屋調べようとか言い出すかと」
「ほかの花屋も同じだろう、ということだ」
「ん? ああ、そっか」

窓の外はもうとっくに日が暮れている。ピントをそちらに合わせれば、高速道路に灯る白く眩しい光が断続的に高尾の目を焼いた。真っ白い人工的な明かり。高く伸びたコンクリートの塀にはスプレーで雑な落書きがしてあって、高速道路でどうやって落書きなんてするのだろうと、その落書きに込められた執念のようなものに高尾は首を傾げる。そのくせ落書き自体は高尾にだって少し練習すれば描けそうな、とても汚い筆記体と、雲のようなモンスターなのだ。青いスプレーが灰色の壁に滲んでいる。そうしてそれを照らすライト。星を見つけるには明るすぎた。

「このバスはもう高速に乗った。一般道に出るのは九時過ぎだろう。家に着くのは十時を回るだろうな」
「流石にその時間にやってる花屋はない、と」
「そこから出歩ける範囲にはな」
「そこじゃなければあるって?」
「繁華街の方ならばあるだろう。夜に花を必要とする商売は確かにあるのだよ」
「ああ、そりゃ確かに」

緑間の口からそのような言葉が出ることが高尾には不思議だったが、言われてみればその想像は容易だった。夜に眠る人ばかりではないのである。この国は。きっと、ほかの国もだけれど。夜にならなければネオンは光らない。虹色に光るネオンの下でこそ輝く金の髪も、爪もあるのだろう。そこに生きる人たちの方が花を必要としている筈だった。ぼんやりと、夜の街に開く花屋を想像してみる。ガラス張りの店内。不自然に金色にきらめく花。それを買いに行く、緑色の髪。

「補導されるだろう」
「流石に勘弁だわ」

想像の中の姿はあまり似合わなかった。高校生の身空で似合いたくもないのだよ、と緑間は言うが、お前は高校生の枠を超えてると思うよ、と高尾が正直に言えば少し彼は黙った。身長も相まって、しかるべき服装をすればおそらく大学生にも、下手をすれば社会人にも見えるだろう。ただどの姿の緑間も、高尾の想像の中では太陽の光の下を歩いていたのだった。

「一般道出てすぐにバス降りるとか言わないんだね」
「降りたところで時間的には厳しいし、それに」

高尾の考えたことなど疾うに考えていたのだろう。特に驚くこともなく淡々と緑間は返す。

「この荷物を抱えてバスを降りて、あてどなくラッキーアイテムを探し、見つけられたとして、そこから帰りのバスを探すのは無理だろう。金銭的にも体力的にも」
「はー、お前にしちゃ冷静な判断だ」
「失礼すぎるぞ」
「それに、あれだろ、一番の理由」
「なんだ」
「今日の我が儘使い切っちゃってるから」

我が儘使い切った状況でそんなこと言ったら、そりゃ宮地さんにぶん殴られるよな。
その言葉に緑間は鼻を鳴らして答えなかった。図星だった証拠である。

「それじゃ、明日の朝花屋探すの」
「朝の六時前に空いている花屋もないだろうな」
「ああ、それで」

あんな渋い顔してたわけ。
その点では、あんなありふれたものが意外と鬼門になったりするのだ。そうか、いや、そうでなくとも、生きているものが一番困るのだ。モノならばある程度は揃えられるし、事前に準備もしておけるだろうけれど、生きているものだけはその場で準備するしかないのである

「え、じゃあどうするの真ちゃん」
「あてはある」
「マジで?」
「気は進まないが、命には変えられん」

またまた、大げさなんだから
そんな台詞を言おうとして、高尾はぐっと飲み込んだ。彼は占いなんてものをひとかけらも信じていないが、確かにおは朝占いのラッキーアイテムを見つけられなかった時の緑間真太郎の運の悪さは、そのあまりにも悲惨な運命は、無神論者を熱心な宗教家に変えてしまうほどの説得力を持っていたからである。

「高尾」
「なあに真ちゃん」
「明日はリヤカーで来なくていい」
「へ? あ、そう」

リヤカーで行かなくていいということはつまり俺が緑間の家に行く必要もないということだ。そう高尾が気がついたのは緑間の家の玄関先だった。俺はどうしてこんな律儀にインターホンを押しているのだろうと、翌日の月曜朝六時五分前、つまりいつも通りの時間に緑間家の前で彼はふと我に返った。



「来たか」

緑間真太郎は、高尾が来て当然といった面持ちで、玄関先で待っていた。自転車でここまでやってきた高尾は緑間の家の敷地内に自転車を止める。勿論、高尾からすればこれは遠回りの道のりである。にも関わらず来てしまうとは恐ろしいと、敷石の上に自転車をがちゃりと止めながら彼は溜息をついた。その隣では、連結されるのを待ち構えるようにリヤカーが鎮座している。ごめんな、今日はお前を連れて行ってやれないんだ、と飼い犬に告げる主人のように高尾は首を振った。

「行くぞ」

そんな様子になどお構いなしに、緑間は高尾を置いて歩き出す。自転車にチェーンをかけながら高尾は「待ってよ真ちゃん!」と声をあげたのだった。



並んで歩く通学路に、高尾は少し新鮮な面持ちで周囲を見回す。朝、目覚める前の町は静まり返って、たまに家々から響く目覚まし時計の音と小鳥のさえずりが世界をわずかに揺らしていた。緑間は黙々と、迷うことなく一直線に歩く。どこに向かっているのか高尾は知らない。しかし、あまりにも道を逸れずに学校へ向かう姿に首をかしげた。段々と胸に不安が広がっていく。まさか諦める筈もない。しかしこのままでは学校に到着してしまう。秀徳高校は由緒正しい学校だが、ピンクの薔薇だなんてあの古びた校舎にあるはずがないのである。

「真ちゃん、ラッキーアイテム、どうするの」
「今それを手に入れようとしているのだろう」

諦めているわけではないのだと高尾は安堵の溜息をついた。なぜ自分が安堵するのかもよく判らないが、やはりあてがあるに越したことはないのである。

「というか、お前、まだわかっていないのか」
「へ?」
「ホークアイが聞いてあきれるのだよ」

その台詞は帰りのバスでも聞いたな、と高尾が思うと同時に緑間はふいと路地を右に曲がった。はじめてここで、道を逸れた。首をかしげてその後ろにつけば、次の瞬間、高尾の目の前には深い緑色が広がった。彼の相棒の髪よりもずっと暗く、静かな、それでいてわずかな光を集めている、緑の命。一面に薔薇をつけた生垣が現れたのである。

「え、あ、え?」

そこは行き止まりだ。行き止まりだからこそ高尾は一度も通ったことがなかった。そしてその行き止まりを作り出しているのは、信じられないほど密集した薔薇の蔦。

「だから気が進まないと言っただろう」

こんなに丁寧に手入れされているのをいただくのはな。そう言いながら緑間は鞄から枝切り鋏を取り出す。ぼんやりと、目の前の光景に立ち尽くしていた高尾はそれを見て慌てて声をあげた。

「真ちゃん、切っちゃうの!」
「生垣ごと持ち運べないのだから仕方がないだろう」
「ど、泥棒じゃね」
「花泥棒だな」

そう言いながら緑間は花に手を伸ばす。朝露に濡れて静かに息づく、ピンク色の薔薇。一つ見定めたのか、彼はそっと深く鋏を差し込んだ。
枝が落ちる音はしなかった。
次の瞬間には緑間の手には一輪の薔薇があった。高尾はただそれを驚いて眺めている。無言のまま緑間は鞄から一枚の白いハンカチを取り出すと、花を切り落とされた枝の近くに結んだ。真っ白い、絹の、薄く薔薇の透かし模様が入ったハンカチ。
どうやら詫びの気持らしいと、緑間の表情から高尾はなんとなしに悟った。そしてそれ以上、何も言わないことを決めたのである。緑間が手にした薔薇が、花弁の端が茶色く枯れがかっている花であることも見てとって。だから許されるということでもないだろうが、かといって高尾が特別責め立てるのも、またこの朝に似合わないと思ったからである。何よりも、その左手で消えゆく命を絶たれた一輪の薔薇が、ひどく美しく見えたからかもしれない。

「何を呆けているのだよ」
「え、ああ、いや、別に!」

まさかその花が羨ましくなったなどとも、まさかその光景に見とれたとも言えない高尾は不器用な誤魔化し方をした。

「てか真ちゃん、よく知ってたねここの生垣」
「通学路から少し見えるのだよ」
「マジか」

自転車に乗っている高尾の後ろで、緑間はじいっとその景色を目に焼き付けていたらしい。日々通る道も、一つ視点を変えれば見えないものが見えてくる。そんな教訓めいたことを一輪の薔薇に教えられるなど、彼は想像もしていなかった。

「っていうか真ちゃん、これ朝練やばくね」

遠征の翌日は練習がない。しかし緑間はどんな時であろうと朝の自主練習を欠かすことはなかった。三十九度の熱が出ようと体育館に現れるのではないかと高尾は感じている。
遅刻は決してしないが、その練習をこなすために必要な時間を考えればすでに時間はデッドラインを超えていた。これではメニュー内容をいつもより減らすしかない。焦る高尾に、緑間は首を横に振る。

「行くぞ」
「え、そりゃ行くけど」
「ここを登れば近道になる」
「は?」

生垣の中、僅かに煉瓦のコンクリートが露出している場所に緑間は手をかけた。

「え? マジで?」
「マジだ」

高尾の目の前で緑間はあっさりとその塀を登る。
ああ、だからリヤカーで来なくていいといったのか。
そんなことを高尾は考えて、今にも塀の向こう側に消えそうな緑髪を見つけた。

「おい、待てよ緑間!」

その声に緑間は振り向いて、確かに笑った。いたずらが成功した子供のように。ああ、お前のこと高校生らしくないなんて言っちゃってごめん、お前は十分に、馬鹿な子供だ。そしてそれを一緒に楽しんでいる自分も。

「早く来い、高尾」

緑間の後ろから朝日が昇る。黄金の光がきらきらとその髪を揺らす。
朝が似合う泥棒なんて、お前くらいだと高尾は笑った。



***



高尾和成は、緑間真太郎のことがよく判らない。この判らないというのは誇張でもなければ嘘でもなく、高尾和成は緑間真太郎という人間について考える時、そのあまりの判らなさに笑い出してしまうことすらある。ただ、行き止まりだと思っていた壁を軽々と乗り越えてみせた姿を彼は知っている。そのエネルギーを知っている。
緑間真太郎と過ごす毎日が、彼には面白くて仕方ない。





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