飛べない魚



高尾和成が、目覚めて真っ先に感じたのは絶望だった。酷い悪夢を見たのだった。それが何故悪夢かと言えば、その夢の中で彼が酷く幸福だったからだ。目覚めた時に真っ先に感じたのは絶望だったが、その直前、夢と現実の境目で彼が感じたのは「目覚めてしまう」という後悔だった。確かにその時彼は、目覚めたくないと感じていた。そのことが、彼を酷く憂鬱な気持ちにさせた。彼はベッドサイドに置いてあるペットボトルの水をあおる。生ぬるくて、気持ち悪かった。吐き気を感じても、何も胃に入っていなければ吐き出すこともできない。いいや、と彼は思う。腹の中に、泥が詰まっている。ぐちゃぐちゃに汚れきって、踏みつけられて、悪意と絶望を混ぜ合わせた水底の泥が、彼を苛んでいる。息をすることが苦しくて、どうにかならないかと喉に手をあててみた。そうしたらより呼吸が苦しくなった。息を吸い込むたびに、腹がひっくり返りそうな吐き気に襲われる。ああ、喉を押さえているというより、絞めているのだなと気がついて、高尾は手を離した。死にたい訳ではなかった。むしろ真逆だった。生きていたかった。死にたくなかった。彼は、死ぬために生まれてきたわけではなかった。八方美人で、お調子者で、よく失敗して、なんだかんだ大事なものには真剣な性格が嫌いではなかった。しかし高尾は絶望している。何故なら彼は知ってしまったからだ。誰かが、彼の中で叫んでいる。生まれてこなければよかったと、そう、叫んでいる。その正体を、知ってしまったからだ。いいや、それは、自分なのだ。自分が叫んでいるのだ。彼は、その名前を知ってしまった。一生知らないままでいたかったのに。ああ、息が苦しい。呼吸ができない。何故なら彼は気がついてしまった。目覚めた時に気がついてしまった。夢の中の自分は、酷く幸福だったのだ。夢の中の自分は、確かに許されていた。けれどそれが、彼の望んだ姿なのだとしたら、彼は今すぐ、死ななくてはいけなかった。死にたくなんて、無いはずなのに。窓の外は今日も麗らかに晴れている。太陽の光は砂糖のように粉っぽく、柔らかく世界を包んでいる。お前のために、死ねというのか。彼は知っている。その名前は。



鼻歌を歌いながら、高尾は俺の隣を歩いている。今日の蟹座は乗り物に注意とのことだったので、自転車もリヤカーも家の庭に置いてきた。無事に進級し、新しい時間割にも慣れた、少し怠惰で麗らかな春である。太陽の光は砂糖のように粉っぽく、柔らかく世界を包んでいた。目に見えない空気がさらさらと音をたてて肌に触れるようだ。遠く、郵便配達の、気の抜けたようなバイクのエンジンが響く。高尾はまだ、鼻歌を歌っている。何がそんなに愉快なのか俺にはさっぱり判らないが、それを止めようとは思わなかった。その間の抜けた音は、実にこの天気によく似合っていた。
何気なく見下ろせば、右巻きのつむじ。存外柔らかそうな髪が風に揺れている。

鼻歌が止まったことに数瞬遅れて気がついて、俺は後ろを振り返った。隣を歩いていた筈の高尾は、俺の三歩ほど後ろで、じっと地面を見ている。その口の端に浮かんでいる微笑みに、視線を辿ってみれば、なんてことはない雑草しか見つからなかった。ほかに何かあるだろうかと近くを探れども、やはりそこには雑草しか見つからない。埃っぽいひなたで、少しかすれた緑が生きている。高尾は、優しい瞳でコンクリートを割って生えてきた雑草を見つめている。優しい瞳。信じられないくらいに優しい目だ。
口を開いて、何を言うでもなく、閉じた。邪魔をしてはいけないような気がしたからだ。この優しい空間を壊してはいけないような気がしたからだ。人の心の機微に敏いとは自分でも言うつもりがないが、触れてはいけないものに関しては理解しているつもりだった。
数瞬の後に高尾は何事も無かったかのように歩き出す。その時にはもういつも通りの軽薄な空気を身にまとっているので、俺はようやく先程飲み込んだ言葉を継いだ。

「何を見ていたんだ」
「ん? 雑草」
「それは判る」

判っている。聞きたいのはそれを見ていた理由だ。いや、より正確に言えば、あんな瞳で見つめていた理由だった。それは、名も無い一片の草に向けるには、あまりにも深すぎた。
俺の考えを理解しているのかいないのか、高尾は僅かに首を傾げたあと、ああ、と得心したように頷いた。

「もしかしたら、こいつも俺かもしれないから」
「意味が判らん」

ざらついたコンクリートが靴底で擦れている。細かい凹凸の隙間に小石が入り込んで、遠くの方ほど白く霞んでいるように見えた。思いのほか直接的に自分の足に伝わる感触。朝なのに、もう昼間のような光の色だ。その中で笑いながら言った高尾の台詞は全く理解出来なかった。春ならば寝ぼけても許されると思っているのだろうか。素直にそう言えば、子供に諭すような口調でもう一度繰り返される。だからさ、あの草も、俺かもしれないから。

「なんか、感慨深いなー、と」

全く説明になっていないこいつの言葉をなんとか理解しようと試みたが、結局出た結論は、どうやらこいつは春の日に馬鹿になってしまったらしい、ということだけだった。こめかみを抑えて、なんとか理屈を搾り出す。

「……生まれ変わったら、ということか」
「あー、うん、近い」

精一杯の妥協案のつもりだったが、それでもまだ正解ではなかったらしい。これ以上どういった解釈があるのか、見当もつかなかった。不満が顔に出たのか、高尾は笑いながら、合ってるよ、と告げる。合ってるけど、それだけじゃないんだ。

「生まれ変わったら、じゃなくて、もう生まれ変わってるんだよ」
「お前、今日の順位は悪くなかったはずだが。頭をやられたか」
「ひど。別に何にもつかれてないって」

いいよ真ちゃんは。判らなくて。
その言葉がまた不愉快で頭を叩いた。子気味のいい音が住宅街に響いて、俺は少し気分が晴れるのを感じる。いってぇと騒ぐこいつに、うるさいから静かにしろと注意した。朝から意味の判らないことを言い出すのだから、自業自得である。こいつはこれ以上言っても無駄だと判断したのか、ぶつぶつと文句を口の中にとどめて咀嚼しているようだった。

誰からの信頼も厚く、様々なことが人並み以上にできる男。とてもバランスの良い男。とても優しい瞳をする男。生まれ変わったらこいつのようになりたいと、そう思う人間だってきっと多いのだろう。俺がなりたいわけではないが、憧れる人間は、いるだろう。そんな男が、生まれ変わったら、より正確に言えば違うらしいが、生まれ変わったら、道端の、雑草になりたいのだと言う。いや、なりたいなどとは言っていなかった。あれは自分だと、そう言ったのだった。

なんで俺今雑草じゃねえんだろうなと、そう笑ったのだった。





******



何故自分に生まれてしまったんだろう。

生まれてからずっと、そう思っている。何故、自分に生まれてしまったんだろう。奇跡みたいな才能に生まれていれば、人の目を気にしないでいけるだけの強さ、それだけの自分勝手さ、そういう存在に生まれていれば、きっと自分は、もっと楽だったに違いないのだ。
高尾和成という男は、もっと簡単に生きられたに違いないのだ。
何故自分は、こんなふうにしか生まれられなかったのだろう。
誰かを拒絶できるだけの強さに生まれていれば、あんな、誰も彼もに笑いかけるような、八方美人の弱さをもって生まれなければ、きっと、もっと、ずっと、簡単だった。自分の世界は、もっとずっと簡単だったに違いないのだ。ただ、全てを貫き通すだけの、それだけの存在として、生まれていれば。

何故自分に生まれてしまったんだろう。

例えば、教室で、少し気まずい空気が流れている場所があるとする。多分きっと、何かどうでもいい喧嘩をしたのだろう。そして、「どうしたんだ」と聞いてみる。もしかしたら、何かお互いの勘違いを正すことになるかもしれない。その結果空気が良くなるかもしれない。例えば、誰かのプリントの整理を手伝ってみたりする。感謝されるかもしれない。それだけ。それだけだ。それが自分に何をもたらすというのだろう。高尾和成を切り売りして、残るものはなんだ。最後に残るものは、なんだというのだ。別にそれは悪いことではない。きっと、それは、悪いことでは、無い。ただ、だったら、自分は、生まれる必要は、なかったんじゃないかと、そう、思うのだ。こんな苦しみを抱えた存在として、生まれる必要はなかったのだ。自分が自分である必要など無いのだ。ただ優しいだけの存在に、ただ暖かいだけの存在に生まれれば良かったのだ。



何故自分が生まれてしまったんだろう。



生まれなければ良かったのだ。
もっともっともっと、神様みたいに完璧な何かに、生まれていれば、良かったのだ。

口を揃えて、皆が自分のことを素晴らしいものだという。自分のことを誉めそやす。大切だと笑う。けれど、全然違うのだ。自分は、生まれない方が良かったのだ。ずっと、眠っている方が良かったのだ。自分のことを、みんなが口を揃えて、良いものだと言う。自分がいればなんでもできるという。そんなことは、決して、無いのだ。自分はそれを知っている。高尾和成は、それを知っている。自分はそんな、万能な存在ではないのだ。自分さえいなければ、自分がもっと色々なことができれば、きっと周りはもっともっと幸福になったし、いろいろなものを泣かせずに済んだ筈なのだ。いろいろなものを、後悔させないで済んだはずなのだ。いろいろなものを、助けてあげられたはずなのだ。

いろいろなものを、泣かせずに、済んだ、筈なのだ。

けれどいまさら、生まれなかったことにはできない。それにはもう、遅すぎる。自分はもう、生まれてしまった。生まれてすぐに死ねばよかったものを、ここまで成長してしまった。まだまだだと人は言うかもしれないが、少なくとも高尾和成にとっては十分すぎるほどに手遅れなのだ。自分を消すためには、もっともっと最初からじゃなきゃダメだったのだ。できれば、その魂が出来上がる場所から。

自分は、生まれない方が良かったのだ。

そう、思う。
だから、高尾和成は、尋ねるのだ。笑いながら、尋ねるのだ。自分を隠して、緑間真太郎を見つめて、優しく、尋ねるのだ。それは、もう、祈りに近いのだ。



ねえ、真ちゃん、
生まれ変わったら、何になりたい。



******





「別に、何になるつもりも無いのだよ」

休み時間に、高尾は俺の方に振り返って、椅子に逆向きに座るとだらしなく机に肘をつく。やけに穏やかな顔をして尋ねられた内容は随分と突飛なもので、俺は呆れたような返事しか返すことができなかった。これは、朝の話の延長なのだろうかと思う。触れられたくない話だろうと思っていたのに、まさかコイツの方から振ってくるとは思わなかった。いまいち読めない男である。しかし普段からこんなことを聞いてくる男だっただろうか。どうもおかしいとは思うが、春というのは人をゆるく溶かしてしまう力でもあるのだろうか。教室の窓は開け放されて、午後の日差しは午前よりも眠気を誘う。花粉症のクラスメイトが窓を閉じろと騒いでいるのが聞こえる。授業中は閉じられているのだから、休み時間は換気しろというのを学級委員長は律儀に守っているのである。

「そもそも、死後の世界があるかどうかも、生まれ変わるのかどうかも何も判らないだろう」
「夢がないなあ、占い信じてる癖に」
「占いとは関係ないだろう」

馬鹿にされているように感じて睨みつければ、こいつはだらしなく笑うだけだった。ちらちらと、カーテンが揺れるのに合わせて、太陽の光がその頬の上で踊っている。カチュ−シャで上げられた前髪は少しほつれていた。

「どっちも不確かな運命論じゃん」
「おは朝は、その成果を俺が自分の身でもって知っている。だが俺の周りで生まれ変わったと申告してくる人間などいなかったからな」
「人間じゃないのかもしれないよ」
「それこそどうでもいいな。人間で無いなら、生まれ変わったことに気がついてもいないだろう」

仏教の輪廻転生の考え方は、成程人間以外の諸々に生まれ変わるのかもしれないが、あいにく俺は無宗教だった。生まれ変わりなどということは生憎だが信じていない。いや、より正確に言えば、それに意味を見出していないのである。

「俺が、緑間真太郎としての意識がなくなるなら、それはただ死んだというだけで、生まれ変わった存在は俺ではないのだよ」

だから興味がないな。そういえば、苦笑を深めた高尾は、ドライなんだから、と呟いた。ドライも何も、当たり前の考えだと俺は思う。もしもこいつの言うとおり、例えば生まれ変わりというものが存在したとして、俺の来世があの道端に生えていた雑草だったとしよう。それを、緑間真太郎と呼べるだろうか。答えは否だ。間違いなく。植物に意識があるのかどうかの論議はこの際どうでもいい。少なくとも、そこにあるのは俺の意識ではないだろう。
窓の外を、大きな雲がゆっくりと歩んだ。日差しが遮られて、先程まで酷く明るかった室内にふっと影が指す。光が消える。透明な水の底に沈んだような色で、高尾は小さく呟いた。

「死ぬの、怖くないの」
「怖いが」

怯えていても仕方がないだろう。
俺の答えが意外だったのか、間抜けな顔で高尾は俺の言葉を繰り返した。怖いの?
死に怯えるのは生物として当たり前の本能だろう。俺は別に今の自分に嫌気がさしているわけでもなければ死にたいなどとも考えていない。もしもトラックに轢かれたらと考えれば憂鬱だし、それで泣くであろう両親のことを考えれば申し訳なさも募る。まだまだ自分には成し遂げられることがあるはずなのである。死を恐れないのは、既に死んでいるものだけだ。自殺志願者だって、屋上のへりに立てば恐怖を覚えるだろう。意外そうな顔をされたことに腹が立って、その頭を軽く叩いた。今日は朝から叩き通しな気がする。いつもこんなものかもしれない。大げさに痛がられるが、痛いのは生きている証拠なのだからありがたく受け取れと思う。

「お前は、そんなに生まれ変わりたいのか」

質問ばかりされているのに嫌気がさして聞いてみれば、こいつは軽く目を見張ったようだった。口を開けて、何か声を発そうとして、そのまま閉じる。魚のようだ。数秒後、雲の切れ間からもう一度日差しが差し込んで、教室が明るくなった瞬間にこいつは答えた。

「そうだね。そうかもしれない」

明るくなったはずなのに、その表情は未だに水底にいるようで、俺は思わず目をまたたいた。その時にはもういつもどおりの顔に戻っていて、こいつは日差しの中でだらしなく笑っている。学級委員長が、窓を閉めて回っているのが、こいつの後ろでぼんやりと見える。

「そしたら、真ちゃんは何になるかな」
「興味が無いと言っているだろう」
「興味がなくても考えるくらいは自由だろ」



真ちゃんは、生まれ変わったら、何になるかな、そんなあてのないことをこいつは呟くのである。





******



生まれ変わったら何になるだろう。

そんなことを考える。自分は何になるだろう。それから、緑間真太郎は、生まれ変わったら何になるだろう。別に、何になる必要もないと笑うだろうか。人生に後悔なんてなんて無いと、断言するんだろうか。だから、生まれ変わる必要なんて無いと、そう言うだろうか。

自分は、ずっと、後悔している。
できることならやりなおしたいと、思っている。
自分に生まれなければ良かった。
自分以外の、何かに、生まれたかった。

考えてみる。自分が生まれ変わったら、何になるだろうか。
そもそも自分は、生まれ変われるのだろうか。何をもってして、生まれ変わったと、そう言い切ることができるのだろう。
判らない。それは、自分には判らない。けれど確実なことは、もしも自分が生まれ変わるなどということになったら、きっとその傍には緑間真太郎がいるだろうということだけだ。緑間真太郎無くして自分は有り得ない。もう、そういう風に、自分は生まれてしまったのだから。生まれなければ良かったと思うけれど、生まれてしまったのだから仕方ない。生まれ変わらないのが一番いいのかもしれないが、生まれ変わるとしたら、どうなるのだろう。どう、なりたいだろう。

ああ、そうだ、もしも緑間真太郎が生まれ変わって、青々と繁る常緑樹になったら、自分は彼の下に生える、名前もない花に生まれよう。彼の下で、彼に寄り添って生きよう。蔦は嫌だと思う。絡みついて、その成長を阻害する気は無いのだ。寄生もしたくはない。そう、何か、彼の根元に生える何か、なんでもいい、一輪の花になりたい。彼はぐんぐんと陽の光を浴びて成長して、高尾和成は、その下、太陽の光が届かない中で、けれど彼の根元を、動かない彼の根元をずっと眺めているのだ。
彼がもしも、深海魚になったら、そうしたら自分は、浅瀬で泳ぐ、ありきたりな魚の一匹になろう。彼の頭上を軽々と、ふわふわと、太陽の光を浴びながら泳ぎまわって、永遠に手の届かない、彼のいる深い深い場所を思う。真っ暗で、静かで、選ばれたものしか行けない場所で静かに泳ぐ彼を思う。いつか彼のいる場所まで潜って、水の重さに耐え切れなくなって潰れていく、そんな、ありふれた、魚になろう。

彼が何に生まれ変わっても、自分は、その傍に行くだろう。その傍にいるだろう。そうでなければ、きっと、自分は、生まれ変わることなどできないのだ。



******






「真ちゃんが生まれ変わった時に、俺近くにいるかな」

まだこの話題を続ける気かと溜息をつく。どうやら、この休み時間の間は話し続けるつもりらしい。時計をちらりと見やればあと五分で、ここまで来たら付き合うしかないのだろうと諦めた。一年以上付き合っていれば、諦めも早くなるというものだった。そもそも二年にもなって、同じクラスなのはともかく、またも前後席という時点で諦念のようなものは抱いている。もうどうせ、離れないのだろうと。恐らく三年の進路別のクラス分けになるまでは。どうせ、こいつはへらへらと笑いながら俺の前にいるに決まっているのだ。

「真ちゃんが鳥になったら、俺はなんだろ。虫とか? 真ちゃんに食べられちゃったりして」
「やめろ気持ち悪い」

生まれ変わりの仮定のお遊びだとしても、こいつを食べるというのはぞっとしない。いくらその時には自分の意識が無いとはいえど、今ここで話をしている俺たちには意識があるのだ。意識があれば、想像もする。

「そもそも、何故わざわざ違うものを選ぶのだよ」

こちらとしては当たり前のことを言っているにもかかわらず、不思議そうな顔をされるのは存外不愉快なものである。そんな、何を言っているのか判らない、というような顔をあからさまにされても困る。こいつの真っ黒な瞳には、不愉快そうな俺と、背後で沈黙するカーテンが映りこんでいた。当たり前のことだが、こいつの瞳にはこいつ自身は写っていないのだということにいまさら気がついて少し不思議な気持ちになる。こいつは、自分がどんな目をしているのか全く理解していないらしい。

「俺が鳥になるのなら、お前も鳥になるに決まっているだろう」
「え、決まってるの」
「決まっている」

ここまでひっついておいて、いまさら離れてくれるとは俺にはどうしても思えないのである。こいつのことだから、生まれ変わってもあっけらかんとした顔で俺の横にいるのだろう。それはもう俺ではないし、それはもうこいつではない筈だが、そんな想像だけはやけに鮮やかにできた。
教室の中で埃が舞っている。それはもしかしたら花粉なのかもしれないし、もしかしたらこいつは、これも俺たちの生まれ変わりだとでものたまうのかもしれなかった。五月の日差しを受けて七色に光を攪拌する細かな塵が、ゆっくりゆっくりと降り積もっていく。光の水底にいるようだと思う。段々と、底に向かって、沈殿していく。

「真ちゃんが、決まってるって言うなら、そうなんだね」

こいつはやけに嬉しそうに笑う。嬉しそうに笑っているくせに、その瞳はどこかに沈んでいる。どこかにゆっくりと、澱のように蓄積する影がある。

「真ちゃんの傍に、ずっといるね」

制服を着崩して、だらしなく机に肘をついて、こいつは穏やかに笑う。陽光に包まれた、酷く眠たい春の午後だ。このままこいつは溶けていくんじゃないかと疑いたくなるような、たわやかな光と相反するように黒く透明な瞳。なんだか見ていられなくなって、もう一度その頭を叩こうとして、けれど、俺はまた、触れてはいけないような気持ちになって、何もできなかった。チャイムが鳴る。返事の代わりに静かに俺は目を閉じる。





******



目を開けてみれば水面は空の光をきらきらと反射して、流動する宝石のようだった。一瞬一瞬で姿を変える、不規則な宝石。水が流れる時に生み出される僅かなささやき声が耳を掠める。視界は広く、背中の方まで眺め渡せば、小枝がゆっくりと沈んでくるのが見えた。
水の中は酷く透明で、小石の上で屈折した光が泡を照らしている。青白い炎が、藻に絡まるようにして燃えている。緩やかな場所に堆積した葉っぱが少しずつ腐り落ちて、そこだけがやけに静かだった。
時間の流れが判らない。いや、そもそも時間とはなんだっただろう。目を開けてから、どれだけ泡が消えたのかもう覚えていないけれど、唐突に、地中から水が湧き出てくるような、そういった奔流を感じて、光の方へ光の方へと泳いだ。眩しい。目が潰れてしまいそうだ。それでも上へ上へ。呼吸が苦しくなっても登っていく。これ以上は息ができないと、そう思った瞬間に水面を抜けて、何よりも眩しい青が視界いっぱいに広がった。青い。青い。なんて広い。そうしてそこを泳ぐ、とても深い緑色をした、とてもとても鮮やかなウロコ。陽の光を目一杯に受けて、優雅に、力強く、輝く。大空いっぱいにはためかせた、その鮮やかさが目を奪って、目に焼きついて、染みて、何か堪えきれなくなって、口を開いて、何もできずに、閉じた。呼吸が苦しい。また、透明な水底へと戻っていく。この川よりもずっと広くて底の見えない青を泳ぐ、君が、見えた。あれは君か。あれが君か。君だ。

ああ、今、この瞬間に、自分は、生まれ変わって、自分はここに、生まれたのだ。君に出会ったから、また、生まれたのだ。君に出会って、今。



******





「高尾」
「なあに、真ちゃん」
「お前、今日一日、様子がおかしいぞ」

帰り道、橙色の空の下で、呼び止めた。地面に影が深く伸びる。逆光で、あいつの表情は俺にはよく見えない。

「ちょっとね」
「なんだ」
「嫌な夢を、見たんだよね」

あまり予想していなかった答えだったので面食らってしまった。悪夢。そんなものに左右されるような奴だとは思っていなかったが、案外繊細な面があることはもう気がついている。今日一日の会話の中身を思い返せば、少しはその内容も推測がつくというものだった。

「俺たちが、死ぬ夢か」
「そんなとこ」
「死んで、別々の場所に生まれる夢か」

高尾は穏やかに笑う。それを見て、俺は自分の言葉が正解だったことを悟る。しかしそんな夢だけでここまで憂鬱になるとは思えない。いまいち納得できないまま続きを待ったが、微笑むばかりで答えようとしない。仕方がないので、適当な質問を投げた。

「それで、俺とお前は何になっていたんだ」
「真ちゃんはね、あれ」

指差した先、橙色の空に泳ぐ大きな魚を見て俺は溜息をつく。あまり意識していなかったが、そういえば、その季節である。いくら夢だとはいえ、せめて生物に生まれ変わりたいものだった。

「それで、お前は」
「正確に言えば、俺じゃないんだな」
「は?」
「んー、いや、俺なんだけど、俺の一部なんだけど」
「お前の全てじゃないということか」
「……いんにゃ、俺の全部かも」

全く要領を得ない返答に首を傾げた。真ちゃんは判らなくて良いんだよ、と高尾は笑った。

「真ちゃんが判らなくても、俺は真ちゃんの傍にいるからね」





******



生まれ変わった自分は、そう、自分は、ようやく自分を思い出す。君に出会うまで、自分のことすら忘れていたのだ。いいや、君に出会わなければ、自分は、生まれることなどなかったのだから、今この瞬間に生まれたと言っていいのかもしれない。ぶくぶくと、揺れる視界の中で、今、自分を、振り返って、そうだ。
自分は、高尾和成、の、中に生まれた。君に出会って、生まれたんだ。生まれてこなければ良かったと、そう、叫び続けて、今ようやく、名乗ることができる。ようやく、君に、伝えることができる。天空高く飛ぶ君に、告げることができる。ああ、なんて、幸せなことだろう。ようやく、自分の、生まれた意味を知るのだ。もう、自分のことを、憎まなくていいのだ。何故生まれたのだと、嘆かなくて良いのだ。君に告げることができるのだ。自分は、高尾和成の、中に生まれた、高尾和成の一部で、高尾和成の、全てでもあった。





僕の名は恋。今もまだ君に溺れています。





inserted by FC2 system