青く霞んだ氷が張る湖の上で、高尾は微笑みながら手をこちらに差し伸べた。「真ちゃん、手つなごう」。あまりにも自然だったそれに、俺は思わず左手を差し出してしまう。周囲は霧で覆われていて、高尾以外の何物も見えなかった。掬い上げるように俺の左手を攫った高尾は、そのまま氷の上を滑り出した。つられて俺も一歩、氷の上へと踏み出す。
鈍く光るスケートの歯は、何故か氷の表面に傷一つつけず、ただ滑らかに氷上を進んだ。音もなく。
危なげなく、歩いているのと変わらない自然さで俺と高尾は滑っていく。いや、歩いているかさえ定かではない。呼吸のように、俺達は滑る。いつから此処にいて、いつの間に、履いていたのか。そもそも、さて、俺はスケートをしたことがあっただろうか。自分にそれの経験があったかどうかなんて、考え込まなくとも分かりそうなものなのに、今の俺には判らない。

そこまで考えて、ようやく自分の左手がむき出しなことに気がついた。手袋はおろか、テーピングすらしていない。高尾も余分な物は一切つけておらず、つまり今俺達の手は肌で触れ合っている。触れ合っているのに、そこに熱は一つも生まれなかった。暖かくもなければ、冷たくもなかった。ただ滑らかだった。この氷のように。
吐く息は白くならない。なぜだろうと思ったが、自分に熱がないだけだった。呼吸は透明なまま、ただ湖だけが青く凍っている。そうして遥か彼方、生い茂る森の影が霧の向こう、灰色に霞んだ。

「真ちゃん、手つなごう」

もう一度高尾がそれを繰り返したとき、何を言っているのだと思った。もう、さっき、つないだじゃあないか。それも、お前から言い出して。そう思って見下ろせば当たり前のように俺達の手は離れていて、いつのまに、と俺は驚く。あまりにも温度がないから、気がつかなかったのだろうか、それとも最初から、俺達は、手を取り合ってなどいなかったのだろうか。
先ほどのように素直に頷くことをためらった。俺はホンの少し、冷静になっていた。奥へ進めば進むほど、霧は晴れていくように思えた。それに比例して、思考も晴れていくようだった。

「何を気持ち悪いことを」

そう言おうとした。けれど、一体全体、何が気持ち悪いのか判らなくなってしまった。男同士で手をつなぐことは、気持ち悪いことだろうか。それは、おかしなことだろうか。それは、間違ったことだろうか。二人きりの氷上、誰からも見えない場所で手をつなぐことは、気持ち悪いことだろうか。
気持ち悪いと、そう、考えてしまうことが、既に、間違っているのだろうか。
普通、だったら、そんなことは思わないだろうか。何も考えていなければ。その心が曇りなければ。「気持ち悪い」と、そう思うことが、薄暗い下心への証明になるだろうか。
ホンの数瞬迷って、「何を馬鹿なことを」。そう、言った。そう、告げた瞬間に、高尾は柔らかく笑った。そうだよ、それが正解だよと、声にならない言葉が聞こえた。流石真ちゃん、間違えなかったね。
足元の氷は薄い。スケートの刃はそれを削らないけれど、二人で滑ってゆくほどに、奥へと進んでゆくほどに、氷はどんどん薄くなっていく。やがて、鏡よりもうすい薄氷になって、その上を、俺達はまるで生きていくような気軽さで滑っていく。
俺の手は、今、どこにあるのだろう。

「真ちゃん」

「好きだよ」

そう言って高尾は笑う。柔らかく笑う。その奥に隠された、この湖よりも深く蒼い絶望を、俺はどうすればいいのだろう。俺は答えを求められている。高尾は俺からの返事を待っている。「ふざけるな」と言えば正解だろうか。「俺もだ」と言えば間違いだろうか。見て見ぬふりをすればきっとこのまま二人、どこまでも滑って行ける。薄絹よりもうすくなった氷の上を二人、決して割れないように慎重に、正解だけを選び続けていけばいい。
けれどこいつは、それを望んでいるのだろうか。それとももう、この馬鹿げた幻想を割って、どこまでも深く冷たい湖の中を二人、手を取り合って沈んで行きたいと願っているのだろうか。正解は、どちらなのだろう。高尾はもう一度笑った。「真ちゃん、好きだよ」。
向こう岸はまだ遠い。そうして俺は、この不毛なやりとりも、熱のない夢も、全て終わらせてしまいたい。




薄氷|堅雪

割り|踏み

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