君と僕/(関わらない黒緑)









逃げ惑っているうちに春が来た。
全中三連覇を成し遂げてから、黒子はひたすら身を隠していた。バスケ部の、特にキセキの世代と呼ばれた彼のチームメイト、いや、そこには元、と付けるべきなのだろうか、黒子は、彼らから身を隠していた。

(元、と付けても、チームメイトと呼んでいいのか、今となっては怪しいですが)

チャイムの鳴り響いた教室からそっと出て、彼は廊下を当て所なく歩き出した。彼が何もしていなくとも見つけることは容易で無い上に、本気を出して見つからないようにした黒子を見つけられるものなど誰もいなかった。黄瀬や青峰あたりが毎日のように自分を探していることを知っているが、彼は誰にも見つかりたくない。
とはいえど、座席の位置は知られているのだから、授業直後にこられては堪らない。故に彼は毎授業の終わり、すぐに教室を出て生徒の群れに紛れていた。

(10分間の休み時間じゃ、図書室に行くのも厳しいですし)

昼休みのように時間があれば彼は図書室にこもることができる。けれど10分間となると、図書室に着いた時点でもう取って返さねばならない。何故中三の教室が最も離れているのかと、彼は若干不満に思っている。仕方がないから、彼はぐるぐると校舎を回るのだ。彼は一人きりで思い出を辿る。

中一の廊下。初めて紫原とすれ違ったとき、あまりの体格差に驚愕して、少し妬ましく思ったことを覚えている。この時はまだ自分のプレイスタイルなんて理解していなくて、ただ一軍を憧れの目で見ていた。
それから、そう、赤司に見出されてから、この廊下で、手品の本をどかりと渡されたことを覚えている。ミスディレクション。あの時はまだその言葉も知らなかった。

『これ、明日までに全部読んでくるように』
『明日まで、ですか』
『できるだろう?』

読書が好きなことと、読む速度が早いことは、なんら関係性が無いのだけれど、と思いながら有無を言わせぬ口調に思わず頷いてしまったことを思い出す。次の日に寝不足の瞳をこすりながら行けば、無茶をするなと叱られた。なんて横暴なと思ったけれど、それと同時に、ああ、彼は本当に普通に読めるものだと考えていたのかと、そんなことを思った。彼の基準では読める量だったのだ。普通に。無理をしないで。無理ならば無理だと言えと叱られたのを覚えている。そうだ、あの頃はまだ彼は間違えることがあった。彼は全てを掌握なんてしていなかった。

(違う、みんな、そうだった)
(昔はみんな、完璧じゃなくて、そして、相手を理解しようと、して、いました)

二年生の廊下へ行く。お手洗いを覗く。渡り廊下へ、音楽室へ、美術室へ、PC教室へ、食堂へ、中庭へ、校庭へ、水飲み場へ、倉庫へ、ゴミ捨て場へ、10分間の間に一つずつ回って、蘇る想い出と共に彼は三年の教室へ戻る。どこまでも一人きりで彼は過去をなぞった。そこに映る黒子にはいつだって誰かがいた。
誰かの影であるということは、少なくともそこに、自分の影になってくれる誰かがいたのだと、そんな当たり前を、彼は過去の亡霊に教わる。それを僅かに痛む胸で眺めながら、彼はまたチャイムの響く教室へ戻る。

(ああ、でも、彼は、あんまり)

なぞる思い出の中に、あまり現れない彼を思って黒子は少し笑った。目立つ容姿と性格をした、頑固で偏屈でちょっと間抜けな彼は、記憶の中には沢山いるのだけれど、黒子と二人、何かを共有したかというと、実は驚くほど少ない。
緑間真太郎という男は、あまり黒子の光になろうとはしなかった。
黒子の光は、青峰だった。それがもはや過去形でしか語れないことは間違いないが、そこに、元、とつけなくてはいけないことは間違いないが、けれど、光で無かった、ということだけはありえない。青峰は黒子の光だった。
だからといって、ほかのメンバーが彼の光でなかったかといえば、そんなことはないのだ。それぞれ違った色で彼の前で輝いていた。けれど、緑間は、緑間だけは何かが違ったと思う。
緑間は、別に、黒子の光でいようとしなかった。積極的に関わろうともしなかった。その癖何かがあると口うるさく叱ってきた。それがあまりにもしつこいので辟易したこともあるし、あまりにも奇特な言動についていけないと思ったことも多々ある。決して、得意なタイプではなかった。緑間だって、別に黒子のことを好きだなんて思っていなかっただろう。

(なるほど、だからですか)

彼は全然、黒子のことが好きじゃなかっただろう。だけど彼は、彼だけは最初から最後まで黒子に対する態度を変えなかった。三年間。三年間、決して自ら関わろうとはしなかったし、緑間が黒子を理解しようと努力した瞬間なんて一度も無かった。そして決して黒子を否定しなかった。彼はいつだって黒子のことを認めていた。光だとか影だとか、そういうことは彼にとってはどうでもよくて、認めるに値するかしないか、それだけ。

(僕が姿を消したことを、心配するでもなく、面白がるでもなく、落ち込むでもなく、怒っているのは、彼だけかもしれませんね)

説教する緑間の表情を鮮明に思い浮かべて、黒子はそのあまりのリアルさに笑おうとして、少し失敗した。一番思い出せるのが怒り顔というのもいかがなものかと思って。
チャイムが鳴る。昼休みは、長い。彼は紙パックのジュースを飲み干して、さっさと図書室へ向かう。禁帯出の本を読める機会なんてこんな時でもなければ、ないのだから。

どんなに喧騒に満ちた校舎も、図書室だけは静寂が保たれている。本は、沢山集まると、沈黙を発するのだ。本の海は言葉を拒絶する。どんな不良でも、図書室で喋ることはできないだろうと、そもそも来ない人種を相手に彼はひとり合点した。

(そういえば)

緑間との、想い出らしい想い出というと首を傾げる黒子だが、ここは、ここには緑間との記憶がある。二人きり、入口から数えて二番目、そこの本棚に、緑間との影を見る。
極限までひそめた声で、二人、会話をした、記憶がある。

『緑間くんじゃないですか』
『っ!黒子か、驚かすな』
『ずっといましたよ。何か借りに来たんですか』
『そういうお前も』
『ええ。読み終わったので、ほかのを借りに。何かオススメあります?』
『……俺とお前の趣味が合うか分からないのだよ』

ひそめた眉と、その手に抱えられたどう見てもお堅い文学に、黒子は確かにこれは意味がないかもしれない、と思った。別に黒子とて、文学と呼ばれる、文豪と呼ばれる者たちの作品を読まないでもないが、その中でも緑間の持つものは随分と内容が重そうだった。気晴らしに読むものとして向かないのは間違いない。

『……遠慮しておきましょう』
『そうか』
『っていうか、それ、部活の合間に気軽に読めるものじゃないと思うんですけど』
『別に気軽に読んでいるつもりはないのだよ』
『ああ、いや、そういう意味じゃないんですけど、まあいいです』
『なんだと?』
『時間かかりそうですけど、期限内に読めるんですか?一週間ですよね?』
『三日もあればどんなものでも読めるだろう』
『あれだけ部活と勉強やって、その発言ですか……』
『気に入ったものは二度読むからその時は一週間かかるが……なんだ黒子その顔は』
『赤司くんの勘違いの原因を一つ見つけたなと思っただけです』

なんだ、こうして思い返してみれば、随分と、随分と親しげじゃあないか。
これでお互いに苦手だなどと言っていたのだから、傍から見ればお笑い草だったかもしれない。あの時、緑間が持っていた本の題名はなんだったろうと思いながら、黒子は本棚の影に身を置く。一番上の段にまであっさりと手を届かせていたことに対して非常に苛立たしかったのを覚えている。一番上。小難しそうな題名と、僅かに目に残った紺色の表紙。銀の題字。

『あ、じゃあ緑間くん、僕のおすすめ読んでみませんか』
『お前の?』
『ええ』
『……気が向いたらな』
『簡単ですからね、君なら一日で読み終わっちゃうかもしれないですけど』

あの時緑間が持っていた本を探せど、どうも見つけられなさそうなので黒子は諦めることにした。どうせ、この昼休みに触りを読んで理解できるものでもないだろう。そもそも題名がうろ覚えな時点で、本当に緑間が持っていたのか断定できないのだ。
けれどあの時緑間に勧めた本は、覚えている。黒子にとってはとっておきの、とても美しい本だ。小さくて薄い文庫本。人生の深みだとか淀みだとか、そういうものを描写するでなく、ただ、美しい景色と色と、優しい空気を閉じ込めて、ほんの少し涙を混ぜたような、美しい本。
久しぶりに借りて読もうかと、入口近くの文庫本の配架された場所へ移動する。目当ての本は誰にも借りられずにひっそりと息づいていた。
いい本なのにな、と思いながら黒子は本をぱらぱらめくる。誰かの栞でも残されていないかと。メモ帳も落書きも栞も無い少し黄ばんだ本は、あっという間に最後のページにたどり着いてしまった。

何故か少し残念に思って、後ろの貸出表を何気なく見やれば、そこに並んだ名前に黒子は少し目を見開く。
男子中学生のものとは思えない、几帳面で整った文字。貸出日時は大分前で、もしかしたら、あれからすぐだったのかもしれない。そんなことを、彼は一言も口に出しはしなかったけれど。

(いつ、気が向いたんですか)

表情を変えないまま、その文字の下に、黒子はゆっくりと自分の名前を書く。赤い返却の判子が目に染みる。

(読むのに、どれくらいかかりましたか)

一週間、かかっていればいいなと思う。小さな小さな文庫本を抱きしめるようにして、黒子はそれをカウンターへ持っていく。想像する。見たことの無い緑間の部屋。一日の終わりにゆっくりとこの本のページをめくっていたのだろうか。どんな気持ちでこれを読んでいたのだろう。読み終わって何を感じただろう。

(とても、美しい、話でしょう)

黒子は逃げ惑っている。沢山の思い出から。窓の向こうには春が来た。柔らかい日差しと、ホンの少し残る北風と、紅色に染まる空気。春のような本でしょうと、今、黒子は緑間と話がしたい。





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