誰よりも甘い/(抱きしめる紫緑)







「みどちん」
「どうした紫原」
「何もないよ」
「そうか」

白い制服が夕焼けに赤い。校門で赤司を待って立ちすくむ二人。唐突に背後から抱きしめられても緑間はレンズの奥の瞳を揺らがせなかった。緑間の腰へと回った手は緩く、肩口に埋められた頭は頼りなく、近づく体温は温い。左手で開いた文庫本から手を離さずに、緑間はされるがままになる。何かを尋ねるわけでもなく、かといって邪険にするわけでもなく。
放課後の校庭で、その光景は世界に取り残されたように静かだ。それもそうだろう。今日は午前授業で、生徒はみな昼食を食べた後に帰宅している。生徒会の仕事がある赤司を手伝って居残った二人以外、この校舎に生徒はいない。当の赤司は最後に職員室に寄るからと、二人を先に出させた。
だからこうして二人は、校門の端で二人きり、立ちあぐんでいる。
大きく傾いた日差しは影を際立たせる。二人の身長よりも長く伸びたそれは、地面の上で重なって一つになっていた。こうやって紫原が緑間に抱きついてくることは初めてではない。それがどのような周期で、どのようなタイミングで、どのような感情の作用によってもたらされるのか緑間はよく分からないが、特に害も無いので彼は放置している。その大きな体を拒絶しない程度には、緑間は紫原を受け入れている。
沈黙。触れ合った所から生み出された熱はじわじわと体の内側に侵食していく。決して不快ではない。ゆるゆると、インクが染み出すように伝わる温度に、生きているのだな、と当然のことを考えて緑間は数度瞬きをした。臙脂に染まった文字の羅列から視線を外して、校舎を見やる。そこに本文の続きを探すように無感情な瞳で。

「何か、食べ物を持っていないのか」
「持ってるよ」
「食べないのか」
「食べちゃいけない気がする」

ゆっくりと、自分の好きなタイミングで思ったことだけを話す紫原の言葉は、いささか理解しにくい。そこに無駄な虚飾は一切含まれていない。けれど直接に、思ったままを話すだけで伝わるなら、世の中にこんなに無数の言葉は必要無かった筈なのだ。自らの気持ちを必死に誇張して飾り立ててようやく相手に届くか否か。紫腹の言葉は端的で、故にコミュニケーションを拒絶する。

「そうか」

それだけ言って、今の会話が無かったかのように、一つも色が変わらなかった瞳はまた本へと落とされた。彼は紫原がコミュニケーションを拒絶しようと気にしない。それは緑間も同様だからだ。緑間もまた、言葉の使い方を間違えている。並みの人よりも多くの言葉を知っているのに、それを選び出すことが致命的に下手である。故に彼は言葉を選ばない。必要が無ければ口にもしない。それが紫原には心地よかった。作り上げた壁の前で、緑間はそれを壊そうともせずに、声を張り上げて脅しもせずに、餌で懐柔しようともせずに、ただ静かに立っている。壁に寄りかかるか否かの距離で、立っている。壁越しにじわじわと伝わる緑間の熱が、ひとりきりの紫原に届くまで。届いても。
放課後の空気は肌に絡みつく。夕焼けが喉の奥に入り込んで火傷しそうだ。体の中から燃えていく。誰よりも空に近い紫原は、その息苦しさから逃れるように、ただ緑間の首筋に顔を埋めて、静かな熱を求める。彼を拒絶しない、傷つけない、柔らかい熱。
回すだけだった腕に力を込めて、彼は緑間を強く抱きしめた。紫原の壁の向こうで待っていた人。いつの間にか壁の内側で、何も変わらぬ様子で立っていた人。
紫原の様子が変化したのを感じて、もう一度緑間は本から目を上げた。小さくため息をついて、後ろ手で紫原の頭を柔らかく撫でる。

「髪がくすぐったいのだよ」

優しい言葉の使い方を間違えている緑間は、それでも決して、離れろ、とは言わない。壁の中、寄り添う二人は互いの顔を見ない。けれど、なんの気なしに伸ばされた手の平が、細い指が、なんの気なしに撫でた頭に届いてくれることへの喜びを、きっと彼は知らないのだ。目を閉じてその感触に身を委ねる。緑間は壁だ。寄りかかっても壊れない、暖かく優しい壁だ。彼は紫原を甘やかすのがとてもうまい。



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