その日珍しく、緑間は定時で仕事を上がった。まだ日は沈んでおらず、駅のホームではどこかで寄り道でもしていたのであろう女子校生たちが寄り添って笑い合っている。ぶら下げた薄汚れた怪物のストラップも、夕日の色に微笑んでいるように見えた。
なんて平和な世界だろう、とそれを眺めながら緑間はぼんやりと思う。とても暖かい世界だった。向かいのホームに電車が滑り込む。そこに乗っている人たちも、まるで今から世界の幸福を集めに行くかのように笑っているように見える。それを眺めながら、緑間は自分もその世界の一員なのだということに気がついて、なんとなく不思議な面持ちになった。時計を見ようかと思って、時間に追われる自分というのはあまりこの世界にふさわしくないなと思って、僅かに持ち上げた腕をそのまま戻す。目を細めて、電車を待つ。たとえ時間から二分遅れても五分遅れても、それに焦って何になるというのだろう。どうせいずれ電車は来るのである。求めていなくとも、どうせどこかに連れ去られていくのである。時間は勝手に彼を大人にしていった。そしてこれからも、そうであるに違いなかった。それは悪いことではない、そう思えるようになるまで、何年かかったのだろう。

「えー、マジでもっと遊びたいんだけど」

彼の背後で、大声で騒ぐ女子高生の声が、ひとつだけ彼の元に飛び込んできた。あっという間にその声はほかの沢山の笑い声に飲み込まれてしまったけれど、それだけはいやに鋭く彼の耳に飛び込んできた。


『いつまでもさ、こうやって、遊んでられたらいいのにな』


そんな子供のようなことを、笑いながら言った男を覚えている。彼のことを置いて消えていった男である。「いつまでも、遊んでいられたら」そう、口の中で緑間は呟いた。子供のようなこと言う、子供だった。その言葉を、彼はまだ手放せずにいる。
目の前に、電車が滑り込んでくる。生暖かい風が彼の額をかすめていく、前髪が煽られて、一瞬視界が歪んだ。まるで涙の膜が張ったかのように、景色が歪んだ。けれど、彼はもううまく泣けやしないのだ。あの日から。
降りる人を待ってから乗り込めば、社内は外の日差しを受けて、影が淡く彩っていた。まだそんなに混雑するような時間帯でもないのか、椅子は全て埋まっているながらも、立っている人はあまり見受けられない。ドアの端、銀色に光る手すりを掴んで見れば、先程まで太陽を浴びていたのか、そこはじんわりと熱を帯びていた。

段々と加速する電車はあっという間に彼を別の場所へと連れ去っていく。何もしなくたって勝手に、彼は時間に連れられていく。それは、悪いことではなかった。それを彼はちゃんと理解していた。彼のことを置いていった男は、そんなことを、ずっと前から理解していたに違いなかった。だから、子供のようなことを、子供のように、笑って言う子供だった癖に、彼は自分の前から姿を消したのだった。どこまでも不器用で、優しい男だった。
そんな彼を傷つけたことを、彼はまだ悔やんでいる。同じように子供だった自分は、彼の言葉に隠された優しさに気がつくこともなく、一人だけ大人になろうとした彼を、傷つけたのだった。

きっと今なら、俺はお前に笑顔で、別れを告げられるに違いなかったのに。

緑間がふとドアのガラスを見れば、笑っている自らの姿が見えた。夕日に照らされて、いびつに笑っている自身の姿に、彼はより一層その笑みを深めた。転んだまま、立ち上がれずにいる自分を、笑った。


本当は、お前に、連れ去られたかったのだ。こんなモノではなくて。

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