入る、と緑間は思った。
一瞬の後、彼の予想通りにボールはゴールネットをくぐった。リングに触れることのない、綺麗なドリブルシュートだった。厳しい練習メニューを終えた後の体育館には緑間を含めて三人しかいない。彼と、高尾と、それから、たった今ゴールを決めた宮地清志。高尾も緑間も、先輩と同じ場所で練習をすることに気遅れるような脆い精神など持ち合わせていない。ただ、彼ら二人が来るまで、この放課後の体育館は宮地一人のものだったのかと思うと、少し不思議な面持ちがするだけである。
先程まで熱気に溢れていた体育館は、今はもう空調も切られて少し肌寒い。体は温まっているから寒さは感じないが、入口を開け放てば秋の夜風が吹き込んでくるだろう。ドリブルとスキール音が響けば、逆にその隙間の静寂が際立つだけだった。三人いてこれなのだから、一人きりの体育館の沈黙はいかほどだろう。高尾と緑間がここに来るまで、彼は口を閉ざして、何を思って、走り続けていたのだろう。

「真ちゃん?どうしたの」
「いや、別に」
「宮地さんがどうかした?」

一人でシュート練習をしていた高尾は緑間の方を見てはいない。その視線の先はリングに向かっている。部活内の練習だとどうしてもパスに偏ってしまうから、と高尾は自主練習の時にシュート練習をすることが多い。パスをする相手がいないから、というのもあるのかもしれない。それにしても、シュートをしながら他を見るとは、また随分と器用な男であると、言葉に出さず緑間は思う。それは無論高尾の目にもよるところが大きいのかもしれないが、それを処理する器用さは、紛れもなく彼の素質である。少なくとも緑間はそう考えている。高尾の特別なところはその目ではなく、それを全て把握する能力の方だ。よく見ている。疑問の形を取ってはいたが、高尾にとって、緑間が宮地のことを気にかけていたというのは、もう確定事項なのである。調子のいい声とは反対に、その眼差しはどこまでも真剣に、右手はボールを軽く放った。
入る、と緑間は思った。

「別に、どうもしない」
「そ?その割に結構真剣に見つめてたけど、なんか話したいことあるなら行きゃいいじゃん」
「どうもしないと言っているだろう」
「へいへい」

ネットをくぐったボールを取りに行って、高尾は拾い上げたそのままに、無茶苦茶な体勢でもう一度シュートを決める。それは緑間の旧友の、でたらめなフォームによく似ていて、そうして勿論、そんなことができるのは彼の旧友だけだった。
入らない、と緑間は思う。
ガコン、と音を立ててボールは跳ね返って明後日の方向に飛んでいった。

「あ」
「やべ」

飛んでいった先には宮地がスリーポイントラインから投げたボール。高尾の声は珍しく本気で焦っていた。緑間も思う。これは不味い。嫌な軌道だ。
後輩二人の心配は数秒後見事に現実になった。空中でぶつかる二つのボール。鈍い音。床に落ちるタイミングはバラバラで、静寂の中に跳ね回る音が響く。緑間の背後で高尾が一歩後ずさる気配がした。特別な目などもっていない緑間にもそれが見えた。二人の正面には、笑顔のままゆっくりと振り返る宮地の姿がある。先輩と同じ場所で練習をすることに気遅れるような脆い精神など持ち合わせていない、が、先輩に物理的暴力を伴って叱られたいかといえば、無論、そんなことは無いのであった。

「おい……てめぇら……」
「や、すんません! すんません!」
「お、俺は何もしていないのだよ」
「ずっりー、真ちゃんだけ逃げる気かよ!」
「は?! 逃げるも何も、事実だろう!」
「そこにいたんだから巻き込まれてよ!」
「巻き込むと自分で言っているのだよ!」
「……気は済んだかよ、クソども」

しまった。
現実逃避も兼ねて二人で言い争いをしてしまったが、問題はそこではないのである。錆び付いた時計よりもゆっくりと、二人は先輩の方へ振り返った。彼はにこやかな笑顔のまま立っている。汗が一気に引いて、あまりの肌寒さに身震いした。彼は決して普段、このように笑わないのである。

「死ね」

笑顔とともに頭に振り下ろされた拳と共に、鈍い二つの音が響いた。ボールはまだ床の上を跳ねていた。体育館は、適度に騒がしかった。




例えば、これは、尊敬という言葉に過ぎないのだと思う。緑間はそう考えている。彼は頭が良いが、自分の感情には素直だった。良いものは良い。悪いものは悪い。好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。入るものは入る。入らないものは入らない。彼の感覚は全てストレートに彼自身に直結している。それは我が儘ではあるが、決して嘘ではないのだ。彼は他人よりも「嫌い」に対して正直だから、それが目立つだけである。実際、緑間が尊敬するものは沢山ある。美しい楽譜だったり、洗練された文学だったり、あるいは人事を尽くした何もかも。日あたりの良い場所に咲いた花だとか、窓枠にぶら下がったてるてる坊主だとか、そういったもの。おは朝占いは、もうそう言った言葉の枠に収まらないので除外するにしても。
ロッカールームで背中合わせに着替えながら、緑間が理不尽に自分まで殴られたことに不満をこぼせば、宮地は面倒そうに答えた。

「てめぇ、先輩に対する礼儀がなってねえんだよ」
「そんなつもりはないんですが」
「もうちっと態度に出せや」
「……尊敬していますよ」

その瞬間に宮地清志は動きを止めた。数秒後、嫌そうな顔で、なんだいきなり気持ち悪いな、とのありがたい言葉が返ってくる。それを理不尽と感じた自分は間違っていないだろうと緑間は思う。隣でやりとりを聞いていた高尾の、堪えきれていない笑い声が不快だった。

「二人とも素直になれない病気でもかかってんですか」

緑間が叩く前に、宮地が高尾の頭を叩いた。その様子を緑間は見ている。これは、尊敬という感情に過ぎないのだと、緑間は思う。ただ、その感情を、「誰か」に抱くことなんて今まで無かったから、緑間は戸惑っている。







「は?あいつ文化祭実行委員なの?」
「より正確に言えば文化祭実行委員特別設置外部署交渉係です」
「テメーのクラスが思いのほかノリが良くて馬鹿が多いことは判った」

部活が終わってから、珍しく自主練をせずに走っていった高尾を見送って、あいつどーしたんだ、と宮地はひとりごちた。文化祭の仕事です、と緑間が返せば、お前知ってたのかよ、と驚かれる。これもまた、酷く失礼な反応だと緑間は思う。同じクラスなのだ。高尾が推薦され、部活が忙しいからと断り、泣きつかれ、条件付きで仕方なく引き受ける過程を緑間は見ていた。引き受けたからには絶対に成功させてやると、やけに意気込んでいたところまで。
真ちゃん、そんなわけで、これから文化祭終わるまではリアカー無しな。帰り多分色々寄らなきゃいけなくなっから。自主練も週一回は休むと思う。
特に否定する要素も見つからなかったので緑間は頷いた。

「委員長が、割とおとなしいんです。外部広報に向いていないから、そこだけ高尾が請け負うことになりました」
「……なんだ」

だから、このように驚かれるのは酷く心外なのである。緑間は、自身を限りなく常識をわきまえた人間だと思っている。バスケに対して人事を尽くしているから他の物を二の次にする節はあるが、それだけだ。だから、このようなところで笑われるのは、彼にとって、いたって、心外、なのである。

「お前、結構周りのやつ見てんのな」
「は」
「全部、知ったこっちゃないで済ませてっかと思ったけどよ」

僅かに笑った宮地の顔を、緑間は見ていた。心外だと思いながら、見ていた。それだけの感情である。それだけの話である。それ以上の意味を、その笑顔に見出すことは無いのだ。
二人きりの体育館は酷く静かだ。淡々とシュートを打ち込み続ける。入る、と緑間は思う。そうしてボールはネットをくぐった。それ以上の意味など、そこには無いのである。
無いはずなのである。



ゴールを片付けて、ボールをしまい、モップをかける。普段は高尾と緑間の二人で行う作業だが、この日は何を言うでもなく宮地も手伝っていた。その手際の良さから、慣れていることがうかがえる。それはそうだろう。何せ、彼らの三倍、宮地は同じことを繰り返していたのだから。
その縮まらない時間に気がついて、緑間は少し首を傾げた。自分たちが三年になる頃には、今の宮地と同じだけの練習をこなし、片付けも手馴れている。間違いがない。けれどその頃には宮地はもうさらに二年先にいるのである。二年後にはまた、当時の宮地に追いつくだろう。けれどその時にはまた、宮地は先に進んでいるのである。
酷く当たり前のことだった。時間が常に平等に流れる以上、縮まらない差がそこにある。当たり前過ぎて、いまさら考えることではなかった。緑間は決して自分の親を超すことは無いし、緑間より一日遅く生まれた人間が、緑間よりも長い年月を過ごす瞬間など永遠に来ないのだ。どちらかが死んで、時間を止めるまで。

「おい、何ぼーっとしてんだ、帰るぞ」

ロッカールームで、ワイシャツのボタンを止めながら考え込んでいた緑間を、少し乱暴な声が引き戻した。数度瞬きをして、彼は急いで支度を終える。
何を考えていたのか、緑間は自分で自分が判らない。自分の感情が、自分の常識に、ストレートに直結しないのである。緑間の常識はこう告げる。当たり前のことで、いまさら考えることではない。時間の無駄だ。そして緑間の感情は告げる。腹立たしい。虚しい。悔しい。苛々する。
寂しい。
不可解な感覚だった。当然のことを寂しいと感じる自身のことが、彼は理解できない。緑間は、未だに自分の感情に戸惑っている。
もう一度呼ばれて、彼はロッカールームを後にした。



秋の日は沈むのが早い。既に街灯がともった道路を二人、横並びで歩く。足音は揃っている。身長がほとんど変わらない二人は、歩幅もたいして変わらなかった。コンクリートの上を、真っ直ぐに進む。宮地は適当に話を投げて、緑間はそれに返事をする。宮地はこう見えて、会話をつなぐのがうまい。高尾は一方的にしゃべり続けるが、宮地は短く問いかけを挟むので、二人の間の会話は案外スムーズに進んでいた。
車がヘッドライトをつけて二人を追い抜いていく。ごう、という音と共に風が遅れてやってくる。自転車も、車道の真ん中を悠々と走って二人を追い抜かしていく。

「へえ、あいつそんななんだ。知らなかった」
「……今言ったことは全て高尾の受け売りですが」
「そうかよ」

頬に当たる風は少し冷たい。吐く息はまだ白くないが、そろそろ制服だけでは厳しい季節である。宮地は学ランの下にセーターを着込んでいるが、緑間は他に何も着ていないため、少し肩をこわばらせた。明日からは上にコートが必要かもしれない。

「コンビニ」
「はい」
「寄るけど」
「寄ればいいんじゃないですか」
「お前は」

付いてくるのかと、そう問われているのだと気がつくのに、緑間は実に五秒を費やした。気の短い宮地がそこまで声をかけずに待っていたことが奇跡に近い。もしかしたら、緑間が迷っていると勘違いしたのかもしれなかった。コンビニは、通学路から少し逸れたところにある。と言っても三分程度ではあるが、寄り道には違いない。真っ直ぐに帰るならば通る必要の無い道だ。暗に、付き合う必要は無いと宮地は言っていた。行きます、と返した緑間を少しだけ見つめて、特に何も言うことなく、道を右に折れる。本来は、真っ直ぐに行けばいいだけなのである。少し逸れた道は、人通りがほかよりも少ない。

「なんかこの季節って微妙だよな」
「微妙ですか」
「夏ならアイスだし冬なら肉まん買うけどよ……」
「おしるこ」
「てめえいつだってそれじゃねえか」
「いえ、おしるこも、この季節はどっちがあるか判らないんです」
「あったかいか冷たいか?」
「はい」

常ならばどうでもいいと言われそうだったが、緑間の予想に反して、宮地はふーん、と気のない返事をするだけだった。てめぇのしるこ事情なんか知らねえよぶん殴るぞ、くらいは言われるかと、彼は覚悟していたのだが。

「お前、どっちが好きなの」
「……あたたかいほうが、どちらかと言えば」

双方に違った良さがあるので、一概には比べられませんが。そう続けた言葉は完全に無視をされた。緑間も最初から返事などは求めていなかったので特に気にしない。ただ、あたたかいほうを選んだ自分に少し驚いているだけである。彼にとっておしるこは、飲みたいもの、という存在でしかなく、どちらと比べて好きだとか嫌いだとか、そのような議論をする対象ではなかったのだ。
視界の先に、白く光る四角い看板が見えてくる。その無機質で安っぽい明かりが、何故か安心感をもたらした。

「っていうかコンビニにしるこなんてあんのかよ」
「ここはあります」
「は?お前全部把握してんの?」
「近場のところは」
「……そーですか」

さもお前がおかしい、というような態度を取られたので緑間は眉を潜めた。おしるこを馬鹿にされても知ったことではないが、それを買いに行くことを笑われては腹が立つというものである。自分の好きなものが他人にとってどうでもいいのはよくある話だが、好きなものがあり、それのために行動していることを馬鹿にされる筋合いは無いのだ。それはただ、人事を尽くしているだけなのだから。

「先輩だって好きなアイドルのことは把握しているでしょう」
「おしること一緒にすんな」
「何故ですか」
「人と物は全然ちげえだろうが!」
「両方、好きなものでしょう」

緑間には本当に判らなかった。アイドルが好きだ。おしるこが好きだ。その好きに区別なんてあるのだろうか。アイドルは生きているというけれど、テレビ画面の向こう、ステージの向こう、手が届かないという点でいえば生きていないようなものじゃないのか。
おしるこのほうが、手が届くだけ、余程健全だと思うのだが。

「はー、お前に言った俺が馬鹿だったわ」
「そうですか。かわいそうですね」
「てめぇが馬鹿だっつってんだよ!」

コンビニのドアが開く。ぶわ、と熱気に満ちた空気が溢れ出た。店員の、間延びした声。該当の少ない住宅街と、真っ白い明かりが煌々と光る店内との落差に、微かに目をすがめた。
緑間を置いて目当ての場所へと向かう宮地をなんとなく視線で追いかけながら緑間は考える。
自分は、宮地のことを尊敬している。では、そもそも、尊敬とは、なんだ。
緑間は考える。バスケットボールの技術で言えば、自分の方が上回っているのである。そもそも自分は、青峰のことを、あるいは黒子のことを尊敬していただろうか。自分にできないことができる人物を。認めてはいた。そのプレイスタイルを、実力を、認めていた。けれどそれは、尊敬とはまた違った感情である。それでは、尊敬とは、追い越せない歳月だろうか。けれど自分よりも年上の人間を尊敬しているわけではないのである。年齢が上だろうが認められない人物は腐る程いる。
美しい楽譜だったり、洗練された文学だったり、あるいは人事を尽くした何もかも。日あたりの良い場所に咲いた花だとか、窓枠にぶら下がったてるてる坊主だとか、そういったもの。
あたたかい飲み物が置いてある場所までゆっくりと緑間は歩く。彼は考えている。
自分が尊敬しているものは、全て、自分が好きなものなのだと気がつく。
積み上げられた努力だとか、日が暮れるまで走り続けるランナーだとか、転んでも立ち上がる子供だとか。
尊敬しているもの、尊敬している人。好きなものと、好きな人。おしること、アイドル。手が届くもの、届かないもの。好きの区別。
緑間は考えている。

「お、あったかいヤツあんじゃねえか」
「はい」

自分が好きな、人。
後ろから覗き込むようにして、宮地は緑間の手に握られた缶に気がついた。特に力を入れた様子も無く、ひょいとそれを取り上げると、彼自身が持っていたスポーツドリンクと一緒にレジの方へ持っていく。緑間はそれを眺めている。

「ほら」

それ以上何も言われることなく、差し出された缶を受け取った。あたたかかった。そのあたたかさには、ホンの少し、これを握っていた宮地の熱が移っているに違いなかった。
外に出れば、夜の冷気が立ち込めている。コンビニの中がやけに暑かったせいか、たいした時間も経過していないのに、先ほどよりも寒さが増しているような気さえする。手の中だけがじわじわとあたたかいままである。また並んで歩き出す。正しい道へ戻っていく。

「先輩」
「なんだ」
「好きですよ」

口にした言葉は、酷くあっさりと緑間の内に収まった。その言葉はストレートに彼自身に繋がった。戸惑うことも無ければ不可解なことも無かった。実は、緑間には好きなものが沢山ある。美しい楽譜だったり、洗練された文学だったり、あるいは人事を尽くした何もかも。日あたりの良い場所に咲いた花だとか、窓枠にぶら下がったてるてる坊主だとか、そういったもの。けれどそれは、ただ緑間の中にだけある好意であって、どこに伝える必要も無いものである。そうして、宮地に対する好意は、伝えるべきものである。ひねり出した結論は、そんなものだった。それ以上言うべき言葉もするべきことも判らなかったので、彼は冷める前にとおしるこのプルタブを開ける。一口含めば、彼の好きな味がした。そうして、隣では、彼の尊敬する、彼の好きな人が歩いている。

「お前、」

もうちっと態度に出せや。
宮地の呆れたような言葉に、少しだけ迷って、緑間はキスをした。やっぱ馬鹿だろお前、と宮地は笑った。その言葉を理不尽だと感じたけれど、不快ではなかったので緑間は黙っていることにした。それだけの感情である。それだけの話である。それ以上の意味を、その笑顔に見出すことは無いのだ。
いや。緑間はそれを、自身で否定する。否定した。自分の心を覗き込んで緑間は考える。宮地のことを、好きだと見つけた瞬間のように。自分の、感情。

その笑顔に見蕩れたと、素直に言ったらなんて返されるのだろう。そう、態度に出してみようか。言葉にしてみようか。



「先輩」



入れ、と緑間は思った。




直球確定
ストレート

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