いつからこうなってしまたのだろう。
ひどく冷めた頭で、五十リットルの大きなゴミ袋に思い出を投げ捨てつつ緑間真太郎は考える。思い出などと、そんな美しい表現も似つかわしくない。これはただの痕跡だ。抜け殻だ。二人の男がここで生活していたという。そしてゴミ袋に入れている以上、それはゴミだと、そう形容するべきだった。
昔はこうではなかった。最初は、こうではなかった。自分より一回り小さいスリッパを可燃の袋に入れて、彼は虚空を眺める。そこに、かつてここで同居を始めた二人の幻影でも見えているかのように。二人で一緒に選んだソファーも、キングサイズのベッドも、40インチのテレビも広いガラステーブルも、全て今となっては不必要に大きい。二人では狭かったというのに、一人では大きいだなんて、随分と人間の大きさは不便に出来上がっているものだと、そんなことを実感するばかりだ。





「……ただいま」
「……ん」
「ああ、ごめん、起こすつもりじゃなかったんだよ。言いたかっただけ。寝てて。ありがとう」

仕事の都合上接待の多い高尾はいつも日付を跨いで帰ってきた。そうしてまた、緑間も医者として、いつでも動くことができるよう、眠れるときに眠っておくのが鉄則だった。必然的に二人は休日以外殆ど顔を合わせることのない生活を送っていた。朝高尾が目覚めた時、玄関を出る緑間に遭遇できれば良い。その程度だった。
高尾の帰りを待てないことに、緑間が罪悪感を覚えていたわけではない。けれどいつからか、高尾が帰宅した時に、洗面所の電気が点いているようになった。初めはただの消し忘れかと思った高尾だったが、次の日も、そのまた次の日も同じように灯る白熱電球と、きっちり消された廊下の明かりに、故意なのだと断ずるのは難しくなかった。真っ暗な家に帰りたくはなかろうと、そんなささやかな気遣いだった。他の部屋に差し込まないよう、一つだけ点けられた洗面所の明かり。

「……おやすみ、真ちゃん」

そう呟く高尾の顔を緑間は見たことがない。いつだってそれは逆光で、そうしてあまりにも僅かな明かりだった。けれど毎日、緑間はその明かりを点け続けた。





ゴミを、捨てる。

淡々と、可燃と不燃に分別されていく過去は、驚くほど彼に感傷をもたらさない。ただ、疲れていくだけだ。拾い上げて、投げ入れる作業が、ひどく億劫だ。
そう、ただ、疲れただけだ。疲れてしまっただけなのだ。二人の生活に。
いつからこうなってしまったのだろう、なんて、考えるだけ無駄だった。
緑間は判っていた。最初は、こうではなかった。けれど、いずれ、こうなることは判っていたのだ。どんな道筋を通れども、どんな思い出を作れども、どんな物語を選べども、ここに辿り着く時期がホンの少しずれただけで、結末は、変わりようがなかったのだ。どのような言葉で永遠を誓っても、同じ口で別れを告げただろう。
救いようがない。どうしようもない。自身を顧みて彼はそう判断する。何がどうしようもないといって、事ここに至っても、「始めなければ良かった」と思えないことだった。始めなければ良かったとは、思わない。しかしそれは緑間にとって決して美しい言葉ではない。二人の生活が、それほどかけがえのないものであったという意味ではない。始めない事などできなかったのだ。事実として、彼はそう思う。どのような道を歩んでいても、ホンの少し、時期がずれただけで、二人はきっと、同じように生活を始めたに違いなかった。
故に彼は、「始めなければ良かった」とは思わない。
何をしていてもいずれ始まっていたし、何をせずともいずれ終わっていたのだ。始まりも終わりも、最初から決まっていたのだ。
緑間が一つ訝しく思うとすれば、今、彼の気持ちが驚くほど凪いでいることだった。嘆く気にすらならない。決定的に分かたれたのだ。幾度か諍いを繰り返して、そうして、喧嘩をすることもできなくなるくらい二人は疲れ果ててしまったのだ。
愛していたのが真実ならば、冷めてしまったのも真実だった。愛していなかったわけではない。ただ終わってしまっただけなのだ。

酷くあっけないものだった。余分な言葉など一つもなかった。今でも彼はその瞬間を鮮明に思い出せる。忘れるにはあまりにも簡単すぎた。

「別れようか、俺たち」
「ああ」

それだけ。本当に、それだけだ。それだけで済んでしまうくらい、終わり尽くしていた。最後くらい、痴情の縺れでも演出して、物でも投げあえばよかったのだろうか。叫びあえばよかったのだろうか。けれど、そんな段階は疾うに過ぎ去っていたのだ。
その日のうちにまとめ終わった高尾の荷物がきっと答えだった。二人で折半しようと約束していた家賃は、半年は振り込むと高尾が約束した。特に緑間の方からは何も言いだしていないにも関わらず、だ。高尾という人物は、最後まで、よく気の回る男だった。
残っている物は全て捨てていいからと、その言葉の通りに今緑間は全てのものを捨てている。ひとつ残らず捨てている。まるでその言葉を遂行することこそが、彼に残された最後の使命だとでもいうように。それだけが、彼がこの愛に捧げてきた年月への手向けだとでも言うように。

ゴミ袋を抱えたまま洗面所に行けば、色違いの歯ブラシが並んでいた。
最初は、こうではなかった。
ホンの少し照れながら、そうして思い切り笑いながら、高尾が色違いの歯ブラシを買ってきた日のことを思い出す。もっと性能のいいものがこの数年のうちに出ていたし、言ってしまえば緑間はもう少し毛の硬いほうが好みだった。けれど、違うものを選ぶのも面倒で、買う時は何故だかいつも色違いを買ってしまっていた。別に愛着なんてなかったのに、いつの間にか惰性で揃え続けていた歯ブラシ。お互いの愛が枯れ果てても、ずっと。
蘇る思い出すら億劫だった。疲れ果てていた。今更涙も出なかった。それだけの未練もなかった。
オレンジ色の歯ブラシを捨てて、ホンの少し考えて緑色の歯ブラシも捨てた。もう好きなものを買えばいい。ゴミを出すついでにでも、薬局に寄って買ってしまえばいい。

そうして目覚めた次の日の朝、洗面所の明かりを点けたまま寝てしまっていたことに気がついて彼は顔をしかめた。思い出はこんな所にまで侵食している。残っているものは全て捨てていいと告げた高尾の声が蘇る。この明かりも、もう捨てていいものだった。しかし気がつけば無意識の内に彼は明かりを点けている。次の日もその次の日も、明かりを点けたまま寝てしまったことに気がついて、緑間は諦めることにした。全て捨てていいとは言っていたが、全て捨てろと言われたわけではないのだから。





ジジ、という断末魔と共に消えた電球を緑間は見つめた。その瞳に浮かんでいたのは、驚愕だった。手元のスイッチはオンになっているが、電球はもう僅かも光らない。切れたのだ。寿命が来たのだ。洗面所は、沈黙したままである。
取り替えなくては。替えはあっただろうか。そう考えて、その必要が無いことに緑間は気がついた。そうして、唐突に、悟ったのだった。

ああ、終わったのだと。

二人の生活は、終わったのだ。もう二度と戻らない。決定的に、終わったのだ。疾うの昔に終わっていた。その言葉がようやく彼の心に届いた。緑間真太郎はここに理解した。自分たち二人は、終わったのだと。
もうこの明かりを点けて待っている必要はない。この家は誰のことも待っていない。今すぐにこの電球を替えずとも、問題などないのであった。暗いままの廊下に、帰ってくる人間などいない。真新しい歯ブラシが、暗い洗面所で光っていた。最新式ではない、緑間には少し毛が柔らかすぎる、緑の歯ブラシ。ぱちり、と意味のないスイッチの音が幕をひいた。












inserted by FC2 system