例えるならそれは
例えるならそれは赤い稲妻だ。 努力をしてどうにもならないことなど、世の中には一つもない。それは俺の信念である。人事を尽くせば天命は下る。人はいずれ海を渡るし、人はいずれ空を飛ぶし、人はいずれ生命を生み出すだろう。船は、飛行機は、今俺が口にしているこの大豆は、努力がそのまま目に見える形になっただけのことだ。 「いきなり何を言い出すのかと思ったけど、そんなに納豆が嫌いとは知らなかったな」 「人は努力の方向性を間違えたのだよ……」 「それでも食べるのか」 「ラッキーアイテムだからな」 「持っているだけじゃダメなのかい」 「勿論持ってもいるが、ラッキーアイテムなのだから使わなくては意味がないだろう。そして食べ物の使い道はすなわち食べることだ」 「それを食べることが既にお前のアンラッキーになっていると思うけどね、俺は」 昼食の時間、鎮座する納豆のパックを苦目の緑茶で流し込む。何故折角の豆を腐らせ、あまつさえ口に入れようとしたのか自分には全くわからない。このにおい、明らかに食べ物が発するものでは無いと思うのだが、何故だかこの国ではこれが代表的な白米のお供として認識されている。信じがたいが、真実だ。真実を認めないほど俺は馬鹿ではない。 「緑間は馬鹿だなあ」 「聞き捨てならん」 「いやあ、馬鹿だ」 「おい、赤司!」 声を荒げてみても、未だに残る豆粒を見ればその気力も無くなる。その様子を見ていたのか赤司はくすくすと楽しそうに笑った。怒るのも馬鹿らしくなって、俺は一気に残りを口の中に押し込む。途端に広がる味に、必死になってもう一度緑茶を流し込んだ。噎せそうになるのを堪えて飲み込めば、赤司の表情は、いかにも笑うのを堪えていますといった様子で苛立たしくなる。 「何故そんなに楽しそうなんだ」 「いやあ、嫌いな物をそこまで必死になって食べる人というのを初めて見たから」 「から?」 「滑稽だなあと」 「おい、そろそろ本当に怒るぞ」 「最初から怒っているじゃないか」 春の日差しは柔らかく教室の窓から差し込んでいる。この季節の風は何故ここまで柔らかいのだろう。花の香りがするわけでもないが、その花びらに触れた時のみずみずしさとやわらかさと、肌とは違うなめらかさが、そのまま空気に溶け込んでいるようだ。 開け放した窓のカーテンがぶわりと広がって少し邪魔だったのでタッセルで留める。俺の定位置は窓際の一番後ろだ。 そこに赤司が来るようになったのはいつからだろう。誰かと食事を取ることに固執するようなタイプにも見えない。単純に疑問でそうぶつけてみれば、バレたか、と笑いながらこいつは簡易な将棋盤を取り出した。対戦相手を探していたんだよと。その時の笑みが、悪戯が見つかった子供のようだったので、なんとなく拒絶する気にもなれないまま、俺と赤司はこうして昼食を終える度に盤を挟む。 「さて、緑間も食べ終わったようだし、始めようか」 「待て、口をゆすいでくる」 立ち上がりながら言えば、目の前のこいつはきょとんと目を開いて、少しして笑った。お前は馬鹿だなあ、と。 * 「王手」 「…………」 「…………」 「…………投了だ」 「うん」 じゃあ、それ片付けておいてくれ。 そう言って笑う赤司の笑みには全く皮肉げな様子が無い。ただうっすらと微笑んで、一つ一つ駒をしまっていく俺のことを眺めている。それは楽しげにも見えるし、寂しげにも見える。何もかもを見透かしているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。俺は赤司のこの表情が嫌いだった。 「お前のその最後まで諦めない姿勢、嫌いじゃないけどね」 「うるさい」 「本当だよ」 「例え本当だとしても、それは勝者の立場からだろう。気分が良い筈がないのだよ」 「そりゃあ、実際に勝っているからなあ」 じろりと睨みつければ赤司は朗らかに笑う。腹は立つがこの表情は嫌いではない。この男は、存外色々な表情を持っていて、その中でもとりわけ笑顔の種類が多い。いいや、それは、他の感情が希薄なだけなのかもしれなかった。 喜怒哀楽のうち、楽以外の表情をこいつは持っているのだろうか。 必ず勝つとこいつは笑う。全てが思うままに行くのなら、怒る必要も無ければ嘆く必要もない。だからこいつは笑顔の種類ばかりが豊富で、俺はこいつが声を荒げるところなどほとんど見たことがないのだ。 きっとこいつには、嫌いという感情も無いのだろうと、そう思う。それは必ず悲しみを呼び込むからだ。嫌いじゃないとは、そういう意味ではなかったか。 「嫌いじゃないなら好きでも無いんだろう」 「なんでそうひねくれて考えるかな」 「言葉のまま受け取っているだけなのだよ」 「うん、知ってる」 だから俺はお前が好きだよ。 そう言って赤司は微笑んだ。その一言が先程の言葉を受けてのことだと判っているので、照れることも無ければ気持ち悪いと思うこともない。こいつは、そういったどうでもいい冗談が案外好きなのだ。 楽しいことが、嫌いなわけでは、ない。 なんというタチの悪い男だろう。そして、だからこそこいつの側は居心地が悪くないのである。 「まあその粘り強さ、時間の無駄だなと思うときはあるけどね」 「いきなりの本音はやめろ」 「我侭だな」 「うるさい」 全てしまいこんで赤司に返せば、こいつはそれを受け取ってすうっと鞄に入れた。その動作すら一つの無駄もなく、その瞬間に前髪をなぶった風すら意図的なもののように思える。この男に無駄なものなど一つもない。けれど、かといって、俺のあの無様な努力を無駄と言われるのも心外だった。 「時間の無駄なんかではないのだよ」 「へえ?」 「努力せずに怠惰な生活を送っているだけでは仕方がないが、努力は無駄にならない。結果がどれくらいの速度で、どれくらいの割合でどこまで出るかは知らんが、報われないことはない。それでも足りなかったなら、まだ足りなかっただけのことだ。また努力を続ければ良い。努力は無駄にならない。簡単な話だろう」 「お前は馬鹿だなあ」 「なんだと?」 お前のそういった馬鹿なところ、嫌いじゃないけどね。 そう言いながら立ち上がる赤司の瞳は静かだ。静かだが、暗い。俺はこいつのこの瞳を、なんと名付ければいいのか知らないが、それはきっと単純な四つの名前で表せるようなものではないのだろう。 雲が流れて日差しを遮る。その瞬間に世界は一気に色味を無くした。先程までのまぶしさとの落差からか、世界が白と黒で溢れる。その中で、こいつの瞳だけがやけに赤い。 「俺たちは努力が報われる側の人間だからそう思うんだ」 「報われないものなどいないだろう」 「緑間、忘れるなよ。同じだけの努力をして、同じだけの行為をして、同じ条件で勝負をした時、そこには必ず勝者と敗者がいる」 「それは」 「そこに自分以外の人間がいる限り、必ず、勝った人間と、負けた人間が存在するんだ」 真っ暗な教室で赤司は笑っている。俺はこいつのこの表情が大嫌いだ。お前の笑顔は、たまに酷く恐ろしい。何故、そこで笑うのか、俺には全くわからない。お前が今抱え込んでいるその感情は、笑みで表すものではないはずなのに。その瞳には全てを切り裂く鋭さがある。全てを焼き尽くす痛みがある。こいつの瞳には、真っ赤な稲妻が奔る。 負けない男は、笑顔以外を作ることもできないのか。 「赤司」 「なんだい」 「確かに人が二人存在すれば、勝負があれば、勝者と敗者がいるんだろう。お前の言う通り」 「ああ」 「けれど、別に、勝負をする必要は、無いだろう」 「一緒に食事をするだけではだめなのか」 ホンの少しだけ驚いたような表情をして、こいつはやはり、笑った。その笑顔は先ほどよりはマシなものだったけれど、俺が見たかった顔は、きっとこれではなかったのだ。俺はその顔を崩したかった。赤司征十郎を覆い尽くす勝利の仮面を剥ぎ取ってやりたかった。いつか敗北を知るまで、お前は、それ以外の顔を知らないというのなら。 「緑間」 どうしてこんなにもお前が遠いのだろう。 「お前は本当に、馬鹿だね」 * 努力はいずれ報われると信じていた。 その努力の総量に違いこそあれど、いずれたどり着けるのだと信じていた。何をどうしたって、何にどう邪魔されたって、たどり着けない場所など無いと俺は心の底から信じていたのだ。いつか。いつか。足りないものは全て飲み込んでしまえばいい。そうしてまた走り出すのだ。 人はいずれ海を渡るし、人はいずれ空を飛ぶし、人はいずれ生命を生み出すだろう。 けれどそれは、本来は、神の領域ではなかったか。 愚かと言われた俺には、それでも無様に努力をする以外の道が見つからないが、それは、報われない側の人間だからこそだ。あいつはあの時「俺たち」と言ったが、いいや、俺は確かに報われない側の人間だった。 例えばその努力が全て報われてしまったとしたら、それは、人ではなくなるだけなのに。 なあ、赤司、お前はあの時負けるべきだったんだ。 お前が人でいたいなら。 お前が赤司征十郎でいたかったなら。 お前の敵にしかなれなかった俺は、お前の敗者にしかなれなかった俺は、また努力を続けている。俺は、お前の隣で、暖かいひだまりの中で、ゆっくりと、くだらない会話をしながら食事をする友人にはなれなかった。 春の香りがすると、俺はぼんやりあの教室の隅を思い出す。やけに静かで、やけに時間がゆっくりと流れていた柔らかい場所。 箸を口に運ぶ間、それを少しずつ咀嚼する間、飲み込んで、次へ箸を伸ばす間。その間だけは、俺たち二人の間に努力などというものは一つもなく、勝負などというものは一つもなく、ただぼんやりと微笑みながら生きていた。 それが酷く懐かしく、やけに美しく思えるので俺は少し笑ってしまう。 例えるならそれは赤いダリヤだ。 (君と見て 一期の別れ する時も ダリヤは紅し ダリヤは紅し/北原白秋) |