残蝉 の












真夏の日差しは肌を焼く。じりじりと、産毛から焦げていくような感覚に高尾は顔をしかめた。
最高気温は三十五度。降水確率ゼロパーセント。都心に近い秀徳高校は主要道路も近く、光化学スモッグも発生しやすい。生徒は全員諦めの顔を浮かべてこの苦境を受け入れている。恐らく周囲の街に比べて一度や二度ほど気温は高いだろう。鉄板が段々と温まっていくように、じりじりと熱されたアスファルトに揺らぐ蜃気楼。その上で焼かれる自分達。このような日に外でサッカーの授業とは、熱中症で倒れる者が出てもおかしくない。古い校舎だが、わざわざこの時期にプールが壊れなくたってよいだろうと生徒は全員ため息をついた。
例に漏れずその中の一人だった高尾は、今自分のチームの試合を終えて校舎横に設置された水飲み場へと来ていた。水飲み場と言っても、ウォータークーラーが並んでいるわけではない。銀色に光る蛇口が六つ並ぶだけの、簡素な物である。受け皿となる部分は足元に数段積み上がった煉瓦タイルで、水は随分な距離を自由落下する。どうしたって水がはねて裾に飛ぶ仕様だ。伝統と歴史だけがウリのおんぼろ設備にはお似合いだというのが、自嘲を含んだ学校の総意である。
取っ手は幾度も水に濡れ、その度に掃除されてきたのだろう。歪んだ水の痕を残しつつも、太陽光を反射して目を刺した。熱された銀は触れただけで熱かったが、勢い良くひねれば冷たい水が吹き出してくる。手を洗い、顔を洗い、それでも収まらない熱に、しゃがみこんで腕まで冷やす。勢い良く突っ込めば袖まで濡れた。ねじり、まくられた体操服の袖は汗を吸っていて、色が変わっているのが水が跳ねたせいなのかどうか判らない。カチューシャで上げた前髪。生え際に滲む汗も、先ほど顔を洗った時の水滴と混ざる。

「あっちー……」

一人だというのに思わずそう溢れるほど、この暑さは厳しかった。どんなに文句を言ったとしても、高尾とて十六歳の男子高校生である。試合が始まれば熱中するし、本気も出す。終わって我に返ってみればこの有様だ。今日の部活の体力残ってるかな、と彼は苦笑した。
熱を冷ますという目的は十分に果たされたが、高尾はあのクラスメイト集団の元へ戻る気にはなれなかった。人は集まるだけで熱を発して暑い。
蝉の鳴き声が彼を覆う。校舎を囲むように植わっている木々に、何匹はりついているのか全く判らなかった。種類も判らない。みーんみんみんみん、ジーーー、みんみん、ジーーーー。合唱というにはあまりにも雑多なその声は夏の暑さを増長するようだ。水の音と、蝉の声。そして、遠く、サッカーをしている生徒たちの歓声が彼のもとへ届く。走れ走れ!パス!いけ!!走れ!!ナイッシュ!!すべての声が混ざり合って、誰のものだか判別等できる筈もない。遠い。
すっかり冷えた腕を水につけたまま、あまりにも当然のことを高尾は考えた。

ああ、夏だなあ。

若葉はもう大きく育って、青々とした影を作り出していた。眩しいという言葉ではとても足りない、突き刺さる日差しを跳ね返して黄金にきらめく葉脈。ちらちらと揺れる光。揺らぐ熱。蝉の声。校庭のざわめき。吹き出す汗。滴る雫。

「何をしている」
「あれ、真ちゃん」

声の方を振り向けば、校庭から緑間が歩いて来ていた。暑いとは決して言わないが、その辟易とした表情は隠しきれるものではない。いかに人事を尽くそうが、地球温暖化と夏の熱波までは彼の力ではどうしようもないだろう。涼しげな表情が似合う彼は、今額から汗を流して水飲み場へと歩みを進めていた。
高尾の隣で立ち止まった緑間を見上げる。あまりにも高くて首が痛い。影になって表情は見えにくかったが、やはり疲れは隠しきれていなかった。背後に広がる青空も眩しく、高尾は目を細める。

「んー?マジであっついから休憩。真ちゃんこそ試合は?」
「終わったのだよ」
「おお、お疲れー。勝った?」
「ああ」

こちらのチームは運動部が多かったからな。
銀色に光る蛇口を上に向けて溢れる水を緑間は飲む。その気取らない姿は普通の男子高校生のもので、そんな当たり前が似合わない緑間を高尾は笑う。笑っている気配に気がついたのか、手で口を拭いながら緑間は高尾を睨んだ。

「何がおかしい」
「いや、なんも?」
「暑さに頭がやられたか」
「いや、実際やられてもおかしくないっしょこれ」

普段の緑間ならば、軟弱なことだ、とか、だらしない、という言葉が飛んできたかもしれない。しかし緑間自身、この暑さに相当体力を奪われていることも、思考が散逸していることも確かだった。人のことを言えないと判断したのか、文句は溜息だけに留まる。
上に向けた蛇口を元に戻して、しゃがみこんだ緑間は高尾と同じように腕を冷やし始めた。とはいえど、思い切り水をはね上げるようなことはしない。捲くられていない袖にも水は飛ばない。ただ目を閉じて水の冷たさを感じているようだった。
校舎横。喧騒から離れて水飲み場に二人、同じようにしゃがみこんで腕を冷やす。

「顔も洗うとすっきりするぜ」
「顔を拭くタオルを持っていない」
「体操服でいいじゃん」
「断わる」
「あーくっそ、授業じゃなければ思いっきり頭から水かぶるんだけどなー!!」

流石に髪ずぶ濡れで戻ってったら怒られるよなー、とぼやく高尾に、当たり前だろうと緑間は即答した。融通が利かない教師ではないが、やんちゃ盛りの高校生をまとめる身である。それなりに規律に対しては厳しかった。
途切れた会話の隙間に蝉の声が入り込む。ジー、みんみん、ジーーーーーーー。一瞬たりとも途切れない声。いつ呼吸をしているのだろうと不思議に思うほどである。

「あーー……」
「……」
「蝉だー……」
「……蝉だな」

何かを話したいとは思うが特に何も話すことがない。考えるにも頭はとっくにこの暑さで焼け焦げている。結果として高尾の無意味な呟きが生まれたが、それに反応を返す緑間も同じような状況なのだろう。何を言っている、と一蹴されるか、無視されるかのどちらかだろうと思っていた高尾は僅かに驚いた。緑間のなおざりな返事は、珍しくやけくそな響きを帯びている。
返事が返ってきた事が嬉しくて、けれど嬉しいという気持ちすら一瞬で沸騰して蒸発してしまって、焦げ付いた言葉の中で生き残った先ほどの言葉を高尾は繰り返す。蝉だー、蝉だ蝉だ蝉だー、蝉だよ真ちゃんー。

「うるさい」
「蝉の方がうるさいって」
「あいつらの鳴き声には意味があるだろう。お前よりマシなのだよ」
「あいつらってなんでそんな親しげなの真ちゃん」
「他にどう言えと」
「……こいつら」
「俺より近づいているじゃないか」

反射だ。高尾はそう思う。この会話はただの反射だ。脳まで届かないで、ただその場で適当に返すだけの中身の何も無い無意味な反射だ。熱い鍋を持ったら思わず手を離すように、この暑さで俺達は反射的に会話しているだけなのだと思う。
真ちゃんと、こういう会話するのは珍しいかもな、と思い至った高尾はその珍しさすら溶け出していくのを感じて額に手を当てた。水で冷やされた手は火照った顔に心地よかったが、直ぐに熱を帯びて温くなる。夏の暑さとは恐ろしい。こうやって何もかも溶け出して、最後には何も残らないのじゃないかと彼は思った。いや、溶けてぐしゃぐしゃになった自分の残骸が残るだろうか。それはもはやホラーだな。溶けるのは、嫌だ。せめて人型は保っていたい。こう、脱け殻のように、そうだ、例えば、あの蝉の脱け殻のように。
返事が返ってこないことを気にも止めず、緑間は先ほどからずっと腕を冷やし続けていた。既に彼の腕は水の冷たさを冷たいと感じていない。十分に冷やされたということだろう。それでもこの水を止めたら、すぐに夏が彼からこの冷気を奪って一層熱くなることは目に見えていた。故に彼は冷やし続ける。腕が冷えたと言っても顔も首も背中もどこもかしこも暑くてたまらないのだ。特に見るものも無いからと、蛇口から溢れる水を彼はひたすら見つめていた。透明で、光を孕んで流れ落ちる夏の水。決して二度同じようには揺らめかない、万華鏡のような涼やかさは、火照った体を気持ちだけでも冷やしていた。

「あー、蝉ってなんでこんな元気なんだよ」
「七日間の命だからな。必死なんじゃないのか」
「成程。俺も人生七日ですって言われたらそりゃ死に物狂いかも」
「というか、こいつらは夏しか知らないんじゃないか。暑いもなにもないだろう」
「いやいやいや。砂漠に生まれた奴だって暑いくらいは感じるだろ」
「一理ある」

素直に高尾の意見を肯定する緑間も珍しいが、それに対してからかいの言葉を投げない高尾もまた珍しかった。二人の声に力はない。意図も無い。惰性だけが存在していた。仕方がないのだ。だって、夏だから。こんなにも、暑いのだから。スマートで理知的な会話など望むべくも無い。だらだらと、何の方向性も無い会話を続けるだけで限界だった。

「あれ、てか待てよ、そもそも蝉ってめっちゃ地面の中にいる期間長いんじゃなかったっけ」
「数年か、下手したら十年はいる」
「全然七日の命じゃねぇじゃん」
「しかし成虫段階は七日なのだよ」
「幼虫の頃って、こいつら意識とかあんのかな…それとも俺らで言う赤ちゃん状態?なんかこう、本能的っていうか?」
「さあ、そもそも成虫に意識があると認めるのか?いや、違う、まて、なんの話だこれは」
「わっかんね。俺たちが赤ちゃん状態だな」
「意味が判らないのだよ」
「そう?じゃ、脱け殻状態。本体はどっかにお出かけしました!」

だから何も考えられませーん、そう言って笑った高尾の明るい声は、蝉よりも大きく響いた。反論する気力も失せた緑間は、そうだな、と言って蛇口を閉める。これ以上ここに二人でいても、なんら建設的な会話は生まれそうになかった。何故男子高校生が真剣に蝉の一生について考えねばならないのか。青峰あたりならば喜ぶかもしれないが、と過ぎった面影に、あいつはこういうことは抜きで、ただ捕って楽しむだけだなと否定する。緑間に合わせて高尾も蛇口を締めて立ち上がった。ずっと晒して水になった筈の腕は、もう三十五度に触れて熱を持っている。
甲高い笛の音。やべ、集合か、という高尾の声に答えることはせず、ちらりとを振り返った緑間は走り出す。その後を追うように高尾も走る。別に水を飲んでいたからといって叱られることは無いが、たかが水を飲むだけで時間がかかりすぎだ、というのは自覚していた。サボりだととられてもおかしくないし事実似たような物である。走り出せば直ぐに肌に浮かびあがる汗。ああ、駄目だ。

「あっつい!!」

そう叫んだ高尾の声に、緑間はほんの僅かに頷いた。校庭のざわめきが喧騒に変わり、その言葉が、人が、聞き取れるようになる。追い討ちをかけるような蝉の声。体育教師の野太い点呼の声。そうして一学期最後の体育の授業はつつがなく終了した。







期末試験も終わり、悲喜交々の通知表も返却され、さあ楽しい夏休みだと浮かれるのは学生の特権である。その特権を余さず部活へと捧げる羽目になった高尾と緑間は、ほぼ毎日のように登校していた。二人ともそのことに文句があるわけでは無い。周囲の見方は違えど、バスケ馬鹿と呼ばれて差し支えのない二人である。
とはいえど、毎日朝から晩まで部活をしていたのでは宿題もこなせない。学問に力を入れている秀徳高校でそのようなことが許されるはずもなく、午前練や午後練のみの日も勿論ある。午前練は、まだ良いのだ。高尾はそう思う。疲れている中、空がしらみ始めるころに起きるのも勿論厳しいが、問題はそこではない。午前中ならば、まだ涼しいのである。それは素直に涼しいというには躊躇うほどの気温ではあるが、昼間の容赦ない日差しに比べればなんということもない。
故に高尾は、今日のような午後練の日が、本当に憂鬱だった。

「あっつー……」
「おしるこがすぐ温くなるのだよ」
「いや、この暑さでおしるこ飲める真ちゃんやべぇよ。っていうか代わってくんねマジで…」
「断わる。負けたお前が悪い」
「俺、熱中症で倒れたら、ダイイングメッセージに、『じゃんけん』、って書くわ」
「お前は熱中症で死ぬのか。残念だ」
「やったー…しんちゃんが俺が死んで残念がってくれてるー……」

午後練習ということは、昼間に移動するということだ。昼間に、日光に肌を焼かれながら、遅々として進まない自転車を漕ぐのは拷問に近しいものがある。学校までの道のりの果てしなさに、到着する頃には体力を根こそぎもっていかれているのが高尾の常だった。太陽の光は地表を熱して、微風も感じられない。こんな時にいつも高尾が思い出すのは砂嵐だ。深夜、放送時間ではない時にテレビをつけると、ザーという音と共にあらわれる砂嵐。あの不安になる音こそないものの、この肌を焦がす空気は熱を持った透明な砂嵐のようだと思う。
リアカー側に乗り、買ってすぐだというのに温くなったおしるこ缶を弄びながら黙る緑間の方にも日差しは差し込んでいる。逃げ場も無い以上、暑さとしては緑間も同じだけの苦痛を味わっているが、少なくとも体力を消費することはない。暑い中、身じろぎもせずに留まっているのと、全力で自転車を漕ぐのと、どちらが苦しいかと問われれば答えは人によるだろう。しかし少なくとも緑間は、高尾よりは理性を保っていた。高尾の脳は既にこの暑さで溶け出して、言葉は意味を失いだしている。以前、脱け殻だと言った高尾の言葉は案外的を射ているかもしれないと緑間は思った。

「……あ」
「んー、どったの真ちゃん」
「いや、死んでいると思って」
「え?!俺?!もう死んだの?!」
「馬鹿が。蝉だ」
「ん?ああー成程。びっくりしたー」

いやーやめてよ真ちゃん。マジで気がつかない間に俺死んだかと思ったじゃん。
そんなわけがないだろう、と言葉を返して、どれだけ反射で会話をしているのだと緑間は呆れる。彼が言ったのは、道路脇の排水口に引っかかるようにして転がっている蝉の死骸だった。ひっくり返ってぴくりとも動かない姿は、まるで置物のようだ。風も吹かないためか、本当に微動だにしない。ゆっくりゆっくりと進むリアカーの側を、ゆっくりゆっくりと近づいて、ゆっくりゆっくりと遠ざかる。
数年と七日間の命を終えて、使命を果たしたのであろう姿は、決して無様でも惨めでもなく、ただ静かにそこにあった。夏の暑さも喧騒も、蝉の周りだけは静かに漂う。死というものは、どんなに小さくとも静寂を伴うものだ。

「学校にいたやつかな、あれ」
「さあ、違うと思うが」
「あー、どんなに暑くても七日だけの命は嫌だなー」
「七日間か」
「どーかした?」
「……いや、地中に数年間いるのだから、七日間の命ではないだろう」
「ああ、そっか。そんな話もしたなそういや」

そもそも蝉の、数年を地中で過ごし、成体でいられるのは数日、という仕組みが緑間にはよく判らない。どう考えてもアンバランスだと思うのだが、それは自分が人間だからであって、彼らにはそれが最も適した姿なのだろうとも理解している。それを人間に当てはめることの愚かしさも。そもそも生態が全く違うのだ。同じように考えることに無理がある。
けれど緑間は考えずにいられない。自分はもう成虫になっているのだろうか。まだ、土の中にいるのだろうか。必死に声を上げ続けているのか、冷たく湿った土の中でひっそりと目覚めを待っているのか。判らない。けれど自分の過ごしてきた日々を土の中と思うのはいささか忍びなくて、彼は首を傾げた。まさかその緑間の姿が見えたわけでもないだろうが、高尾はふと疑問を口に出す。

「でもそれ生きてるって言えんのかな?いや勿論生きてるんだけど、うーん」
「それはお前の幼少期を否定するのと同じじゃないのか」
「あー、確かに?でもじゃあ、いつから俺らって成虫扱いになるんだ?最後の七日だけとか、ただのおじいさんじゃね?」
「割合の問題になるからもう少し伸びるとは思うが」
「そんな難しいことかんがえらんねぇ…単純にさ、俺らが胎児の時が蝉の幼虫みたいなもんで、生まれてきたら蝉の成虫っての、ダメ?」
「わかりやすくはある」

それは残酷な考え方でもあるとも緑間は思う。それは、彼らの人生を、七日間と規定するようなものだからだ。けれどそんなことをセミに伝えたら彼らは笑うのだろうか。面倒くさい人生を、何十年も生きるだなんてそちらのほうが面倒だと。
七日間、という数字が緑間の頭を埋める。一体全体自分は何日の夏を過ごしてきただろうか。生まれてから今まで。何日の。そんなことを唐突に考えたのだ。生まれたばかりの初めての夏など勿論覚えていない。小学生の時だってあやふやだ。いや、この夏だって、一週間を詳細に思い出せるかと尋ねられたら緑間は首を傾げるだろう。無論断片的には幼い頃も覚えているし、今に近づくほど記憶が増えていくことも確かだ。しかし、その不確かさに彼は眉をひそめた。
そうだな、と緑間は思う。単純に、3ヶ月を夏だとして、1年で90日、16年で、1440日。蝉の何百倍もの夏を生きてきて、彼は今16度目の夏を終わりに向けて進んでいる。来年になれば17度目の夏を迎えるだろう。その次には18度目。それがいつまで続くのか判らない。自分が大病もなく過ごせば80回は迎えられるだろう、と彼はあてを付ける。残り、60回と少し。蝉よりもずっと多いその回数が、果たして本当に十分なのか緑間には判らない。16度目の夏だ。そしてあと60回。それが終われば自分もあの蝉と同じようになるのだろうか。息を止めて、静寂を連れて動かなくなる。

「高尾」
「はいはい、なんでしょー」

呼びかけたことに意味は無かった。ふと、目の前の存在を確かめたくなったのである。緑間の目の前で自転車を漕ぎ、汗を垂らしながら軽い返事をする高尾もいつかは死ぬ。十六回の夏を過ごして、あと何十回かの夏を過ごして、終わり。途方もなく先であるはずのことが、なんとなく目の前に現れた気がして一瞬緑間の周囲から熱が消える。当たり前の未来がふと恐ろしくなった。この感傷を、こめかみを抑えることでふり払う。考えても仕方のないことだった。そんな先のことに怯えても仕方がない。

「いや、なんでもない」

この夏ももう戻らない。今日が終われば昨日になるし、夏が終われば秋になる。そうしていつか次の夏が訪れるのだろうけれど、それは決して同じ夏ではありえないのだ。揺らめいて落ちる水のように、同じ輝きは二度と戻ってこない。この夏に抜け殻を残していければ良いのに。いつか誰かが拾って、夏の思い出の縁になればいい。そんなことを思って、ずいぶんとこの暑さにやられているな、と緑間は自分を分析する。全く理性的とは程遠い心境だ。
夏が彼らを取り巻く。青空は太陽を掲げてどこも眩しい。雲は大きく、絵のように膨れ上がる。風も無く、空気はひたすら熱を帯びる。体もどんどん熱くなる。いつか焼け焦げてしまいそうなほどに。溶けて夏の一部になってしまいそうなほどに。

「変な真ちゃん」
「うるさいな」
「蝉よかうるさくないっしょ。って、この会話前にもしたな」

高尾は記憶を探る。緑間も記憶を探る。最近のことだ、校庭で、水飲み場、二人で下らない話をした。その時、蝉の話をした。けれど、その会話の詳しい内容は思い出せない。本当に下らなかったことは覚えている。たかが数週間前のことですら、こんなにもあやふやだ。

「あー、でも蝉は夏しか知らねぇのか」
「そうなるな」
「それはなんか、もったいねぇな」
「そうだな」
「でも、七日間の命なら、一日一年くらいかもしれねぇぜ」
「なんだそれは」

恐らくなにも考えずに話しているであろう高尾にため息をつく。のろのろと進む自転車は、それでも確実に前進していた。蝉の死骸も今は遠い。
どれだけ感傷に浸っても暑さはどこにも消えずに夏を叫んでいた。蝉の声も途切れることはない。蝉は七度夏を迎えるのだろうか。一日の終わり、夕暮れの秋を佇み、夜風の冬を超えて、朝の日差しに春を迎え、夏を生きてまた夜風に冬を見るだろうか。七日間の命に七度の夏。
緑間にとって人生で十六度目の夏。緑間の正面で夏と同化して自転車を漕ぐ高尾。この友人と迎える初めての夏。一度目の夏。あと、二度で、終わる、夏。そこから先は知る由もない。この夏に七度目はあるだろうか。あれば良い、と緑間は思う。夏の日差しに沸騰した思考で、残った言葉はそれだけだった。






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