「君はいいよなあ」

ふわふわと浮かぶ茶色い前髪の隙間から覗いた瞳は、酷く暗く澱んでいた。常の泣き出しそうな瞳とは全く様相を異なるそれにガイは僅かにたじろいだ。そうしてその後に驚いた。それが目の前の、泣き虫で気弱で、心優しい同級生が浮かべたものだとはとても思えなかったからだ。
例えば、と彼は思う。もしもこの瞳を浮かべたのが別の人物であれば、例えばマサオとよく行動を共にしているあの少し不思議な友人たち。あの中の誰かだとしたら、きっと彼は、たじろぎはすれど驚きはしなかっただろう。彼らには底の知れない何かがあった。
例えば破天荒で常識破りの彼。サッカーの授業中に、突然ボールを鷲掴みにしてドッジボールを始めた彼。同じチームだったガイは慌てて諌めたものだ。そうして先生にこっぴどく叱られた後、彼はなんてことのなさそうな顔で、本当に、一つの曇りもなく言ったのだ。《どうせ何も変わらないのに、先生はオカタブツなんだなあ》。

「君はいいよなあ」

そうして、ガイの目の前の少年は、決して、そうではなかった。凡人であった。良くも悪くも、彼は平凡な人間であった。

「だって君はなんでも持っているじゃないか」

だから、ガイには、こんな瞳をする少年が、どうしてもあの平凡なクラスメイトだとは思えなかったのだ。
教室は喧騒で満ちている。廊下から、窓の外から、天井から、人の声が溢れている。机に突っ伏して寝ているものも、隅でカップラーメンをすすっているものも、下世話な雑誌を広げているものもいる。いつもどおりの、雑多で、ありふれていて、ありとあらゆる平凡な高校生活を詰め込んだ休み時間に、マサオはガイを睨みつける。

「僕の欲しいもの全部持ってる。格好いいし、背が高いし、頭がいいし、女の子はモテるし」
「最後のって重要か?」
「重要だよ。すごくすごく重要だよ。だって、君は苦労しないで愛されるってことだ」

マサオの声がぐじゃぐじゃと響く。たいしてよく通る声でもなければ、特徴があるわけでもない。それでも何故かその声はガイを憂鬱にさせる。どうして憂鬱になるのかもわからない。ただ、彼の暗い瞳が、そのままじわじわと、真夏の蒸した雨のように、抗いようもなく体にまとわりついてくる。まるでマサオが世界の犠牲者で、彼の悲劇の一端が自分にあるような錯覚をまきおこす。甲高い女子の笑い声も耳について、ありとあらゆる不快なものがマサオの瞳で際立ってくるようだ。

「なんだか、随分な言われようだなあ」
「だって、事実そうだろ」
「そうかな。キミにだって良いところはあるだろ。優しいし、ちゃんと人の痛みを知ってる」
「知ってる?僕はね、僕はなんにもないよ。特別な才能もないし特別に綺麗な顔もしていないし、特別に優しくもないし、特別に愛されもしないし」

別に優しくないとは言わないけどね。とそう言ってマサオは顔をしかめる。僕はね、優しくないわけじゃないけど、でも、別に、特別優しいってわけじゃないんだよ。

「僕はね、家に帰って漫画を読むんだ。それでね、嫌だなあって思いながら宿題をする。たまに忘れる。成績はいつだって中の下。勉強してるわけじゃないし、勉強してないわけじゃない。百点を取る努力もできないし、ゼロ点を取る勇気もない。帰りにしんちゃんに誘われて遊びに出たりもする。みんなしんちゃんを見てる。風間くんを見るしぼーちゃんを見るしねねちゃんを見る。だけど僕のことを誰も見ない。でも存在してないわけじゃなくて、僕のこと見ても、興味がない。それだけ」

何かを言わなくては、とガイは思う。腐ったゼリーのような不快感に包まれながら、ガイの目尻には困惑が滲んでいる。彼には、目の前の少年がどれだけ理不尽なことを言っているのかがよくわかる。けれどそれを指摘しようと、粘つく口を開いた瞬間に、マサオは口を開くのだ。

「知ってるよ」
「……何を?」
「君は僕よりもずっとずっと苦しい思いをして辛い思いをして、信じられないような目にあってる。君はすごく大変な思いをしてる。僕が漫画を読んでる間に君はすごく悲しいことに立ち向かってる。それなのに人に優しいし面倒見がいいし、自慢しないし、こうして僕の話をちゃんと聞いてくれる」
「買いかぶりすぎじゃないかな」
「ずるいよね」

すごくずるい。
その言葉がガイの頭の中で渦を巻いている。いつまでも反響して消えないその声の向こうには暗い瞳がある。いつの間にか教室の歓声は遠い。じっとりと、汗ばんだシャツが背中に張り付く感触。それが、酷く、不快だと、それだけをいやに鮮明に感じている。

「だからさ、ねえ、」

「ねえ、君は、助けてくれるだろ、僕を、」

「僕を、哀れに思うだろ?」




優しくない男と甘くない男





「いや、いくら嫌いだからって折角お母様が作ってくれたお弁当を残すのは駄目だろう。ほら、お茶と一緒に流してみたらどうだ?」
「ほら!ほら!そうやって君はさ!自分に好き嫌いがないからって!そうやって綺麗事を言う!」
「綺麗事ってなあ。俺にだって苦手なものくらいあるぞ」
「女の人が好きなのに女の人が苦手って!そんなのずるいじゃん!ほんとさ!僕にも君のモテ要素一個くらいくれよ!」
「いやあ……それはなあ。ほら、昼休み終わるぞ」
「ううう……君はさあ……僕がこんだけ自分のみっともないとこ見せつけても全然僕に甘くないよね……」
「いやだって、キミのそれって、雨の中のチワワ演出してるだけで本当は全然元気じゃないか」
「チワワ演出してるんだよ?!優しくしてくれてもいいじゃん?!」
「はいはい」



inserted by FC2 system