そのパンは酷く味気なかった。



***



部屋の床を拭きながらエレンはぼんやりと考え事をしていた。四つん這いになって、無心に濡れた雑巾で汚れを落とす。木が敷かれた床はところどころ腐食しかけていたが、そういった所はそれ以上痛みが広がらないようにゆっくりと拭けば案外汚れは取れる。雑巾が黒くなったら、バケツで絞って、また端から拭いていく。バケツに張った透明な水は、姿の見えない不安のように灰色に濁っていて、もう底が見えない。綺麗好きではなくとも見るだけで不快感を覚えるだろう。放っておけば気がつかないような汚れを、わざわざ炙りだしているような行為だ。実際、既に掃除を終えた所と、終えていない所の違いがエレンにはいまいちよく判らない。ただ、それが目に見えない形で床にこびりついているのが嫌なのだろうと、なんとなく納得している。彼に床掃除を命じた、人類最強のことである。ハンジはエレンに「失望したか」と問うたが、その質問に彼は首を横に振った。失望などしていない。ただ、もしかしたら拍子抜けはしたのかもしれなかった。その言動の、人間らしさに。間近で見るまで、エレンは彼のことを、冷徹で理知的で、人の心を持たず弱点の無い、無機質な人物だと思っていたのだ。そう、巨人の首を鋭利にそぎ落とすあの刃のように、抜き身の刀、触れれば傷つかずには済まない、そんな鉱物のような人間だと思っていたのである。

「エレン」
「は、はい!」
「あと二時間で飯だ。とっとと終わらせろ」
「了解です」

まさに今脳裏に浮かべていた人物に声をかけられて、エレンは四つん這いのまま背筋を伸ばすという器用な芸当をしてのけた。何故兵長が自分に伝えに来たのかは判らなかったが、彼に、ことのついでに伝言を頼める人物は限られている。眼鏡の明るい人物を頭の中に浮かべながら、エレンは床を見つめるリヴァイに焦点を合わせた。彼が今まで磨いていた床をじいっと眺めて、その出来栄えを確かめている。エレンには判らない微細な違いだが、きっとこの上官の目には白と黒のようにはっきりと境が判るのだろう。数度瞬きをするとふいと視線を外したので、どうやらお眼鏡には適ったらしい。そのままブーツの踵を返して、自らの執務室の方へ歩き去ろうとする。エレンに声をかけるためだけにここまで来たはずがない。あくまでもエレンはついでである。彼にはこの後も仕事があるに違いなかった。

「兵長」
「なんだ」

だから、エレンには何故自分が上官を呼び止めたのか全く判らなかった。頭から血の気が引くのが判る。何せ彼には、上官を呼び止める用事の一つも無かったからだ。声が届かなければ良い、いっそ無視して欲しいと祈れども、そのような彼にとって都合の良い耳をリヴァイが持っている道理もなかった。案外神経質で律儀な相手は、呼び止められた場所できっちりと立ち止まり、体ごとこちらに向けてエレンの言葉を待っている。いつもは見上げられる立場のエレンだが、今は限りなく床に近い場所から見上げている。真っ黒な瞳がじいっと自分のことを見下ろしている。馬鹿にされているわけではなく、ただ角度の問題なのだろうが、エレンはまるで彼に懺悔しているような気持ちになった。窓の関係上太陽の光が直接入り込まない室内は、夕方といえど案外暗い。ただでさえ青白い相手の肌がより無機質めいて、蝋人形を相手にしているようだ。いいや、蝋人形ならば良かったのである。しかしいつまでも沈黙を通すわけにはいかない。時間にすればおよそ数秒のことだったろうが、上官を数秒待たせるなど、兵士が取って許される行動ではなかった。一切動かなかった能面のような無表情が、僅かに眉を寄せる。静止していた空気が動き出そうとしている。今発言しなければ、間違いなく彼の腹にブーツのきっさきがのめり込むであろうことを予感して、エレンは口を開きかけたリヴァイの前に叫んだ。

「あの!」
「なんだ」
「きょ、うの夕飯はなんでしょうか……」
「……知らん」

固まりきった空気に、エレンは引きつった笑みを浮かべた。殺されることは無いだろうが、今日の夕飯が食べられない程度まで腹を蹴られることを覚悟して、彼は無意識の内に腹筋に力を入れた。これならば発言しなかったほうがマシなように思える。正直に、「無意識に呼び止めてしまいました」と告げれば良かったのだ。上官の数秒を無駄にすることがなんだというのだろう。このような質問、まるで小間使い扱いではないか。エレンの背中には汗すら伝わらない。時間が止まったまま、彼は不機嫌に顰められた真っ黒い目から視線を逸らせないでいる。
夕日が沈むかと思うほどの時間、彼はそうして固まっていた。実際には、やはり、数秒のことだったのだろう。

「気になるなら、ハンジに聞きゃ判る」
「え、あ、はい」
「今ならまだ東塔で資料でもまとめてんじゃねぇのか」
「はい」
「それで」
「以上です……」
「そうか」

それだけを告げると、彼は白いスカーフを翻して立ち去ってしまった。蹴りの一発や二発、最低でも怒鳴られて叱られることを覚悟していたエレンはしばらくその場に固まっていた。手の中で雑巾が乾いていく。
そう、失望などはしない。ただ、拍子抜けするのである。人類最強と言われ、一人で一戸旅団ほどの力を持つと謳われ、数々の巨人を滅ぼしてきた男は、本当にただの人間なのだ。刃でも鉱物でも、ましてや神様でもなんでもなく。相手の言葉を聞いて返事を返す人間なのである。そのことがこんなにも、エレンを驚かせる。
どれほどの時間そうしていたのか、ふと我に返って、彼は慌てて掃除を再開した。夕飯を尋ねてもどやされはしなかったが、与えられた仕事を終わらせられなかったらそれは職務怠慢だろう。少し慌てて絞った雑巾はあまり水気が取れきれていなくて拭いた箇所の色を変えた。水に濡れて艶やかに茶色く光る床と、乾ききって木目に沿って節くれだった箇所の差が際立っている。





「明日はエレンくんと実験がしたいから一日借りるよリヴァイ」
「好きにしろ」

石造りのテーブルの上で、カチャカチャと安い食器の音が響く。ここにいる誰一人として、テーブルマナーに口うるさいものはいないようだった。食べられれば良い。そんな言葉を体現するかのように、皆淡々と口に運んでいく。こんなもの、ただの生命活動の一環でしかないのだとでも言わんばかりである。その中で、エレンの隣に座る陽気なハンジの声は酷く浮いていた。エレンの正面にいるリヴァイの冷たい声が、その対比をより浮き立たせた。生きているのが、朝日がのぼることが、明日も巨人と触れ合うことが、楽しくて仕方がないという様子だった。ハンジにとっては、食事は、その喜びのために存在しているものだった。生きるためではなく、明日を楽しむためのものだった。本来ならば正しいであろうその感情は、この隔離された城ではただ周囲との隔絶を生んでいる。そのことに本人も気がついているのであろう、ただその隔絶に興味がないだけであった。それは、ハンジが楽しむために必要のないものだったから。

「エレンくんエレンくん、君の巨人化の条件だとかその時の筋肉の動き、意思疎通、感覚の変化、形態変化、調べたいことは山積みだからね。一週間は寝かさないよ」
「は、はい」
「いやー、まあ、流石に最後のそれは冗談だけどさ。でも、本当に気になるんだよね。特にその巨人化の材料」
「材料、ですか」
「うん。だって、特別な何かを食べてるわけでもないでしょ」

その言葉に、エレンは皿を見下ろす。パンとじゃがいも、レタス、ベーコン一枚、具のない透明なスープ。兵士として、最低限の食事は確保されているがそれだけだ。質の悪いロウソクの明かりに照らされたそれは、見た目もあまりよくない。食堂の空気が、ガラスの無い窓のおかげで冴え渡っていることだけが救いだった。それだけがこの食事の唯一の美しい調味料だった。そしてエレンはそれを生きるために食べる。

「巨人が軽いっていう話は前にもしたけどさ……それにしたって、その体を作る物体はどこから入手してるんだろうね」
「すみません、判らないです。気がついたら出来上がっているので……」
「ああ、責めてるわけじゃないんだよ」

同じものを食べているのに、どうして違うものが出来上がるんだろうねって、そういう話さ。
歌うようにそう告げたハンジに、エレンのスプーンを運ぶ手は一瞬止まった。その瞬間に皿に落ちた一滴のスープが僅かに波紋を立てる。その様子に気がついているのであろうハンジは、それでもそんなことを気にも止めない。楽しそうに巨人についての解釈と講義を続けている。その声はエレンの耳には届かない。ただ彼は、自分が今飲んだスープを見つめている。ぐるぐると、彼の頭の中で一つの言葉が廻っている。

同じものを食べているのに。

同じものを食べているのに、出来上がるのは違うものなのだ。
エレンが顔を上げた先では、黙々とリヴァイがパンを噛みちぎっていた。手でちぎるという発想は無いのか、そのまま食べてはパンの断面を晒している。そこに僅かに彼の歯型を見てとって、エレンは何か見てはいけないものを見てしまったような罪悪感にとらわれる。そしてそんなことに気がつきもせず、リヴァイは酷く単純に蒸されただけのじゃがいもにフォークを突き立てる。フォークが皿に突き当たって、カチンと耳になじまない音がする。行儀が悪いが、それは生きるためには必要のないものだ。必要なのは、フォークに突き刺さった歪なじゃがいも。彼はそれを口の中に放り込んで顔をしかめている。

「ハンジ、味付けが薄いぞ」
「もう塩がほとんど無いんだって。一週間後には来ると思うからそれまでは薄味で我慢してよ」
「仕方ねえな」

無いものを求めても仕方がないと、そんな当たり前のことを割り切れる人間は案外少ないものだが、リヴァイはそれを割り切れる人間だった。あっさりと頷いて、無表情のまま、味の無いじゃがいもをほおばっている。その様子をあまりにも自分が一心に見つめていることにふと我に返って、エレンは慌ててまた視線をスープ皿に戻した。先ほどたてた波紋は収まって、少し量の減った、透明なスープが彼の前に佇んでいる。白い皿の上に広がる味の薄いスープの湖。



塩の湖があるらしい。世界には。取りきれないほどの塩が溶け込んだ、湖。そんなものが世界には広がっている。
信じられないと言ったエレンに、アルミンは太陽よりも輝く瞳で本の頁を指差した。本当だよ、ここに書いてあるんだ。世界は僕らが知らないもので溢れてる。
そんな宝の山があるはずがない。あるはずが無いと判っているけれど。そのページは彼に夢を見させた。それは、少年が世界に憧れるには十分だった。炎の山、塩の湖、雷の森、砂の海、そんなものが世界に広がっている。

「じゃあそこに行けば塩が沢山手に入るのか」
「沢山どころじゃないよ、取りきれないくらいさ」
「そりゃすげえなあ」

二人がまだ幼い時の話である。二人がまだ、世界に希望を抱いて、本当の不幸の味を知らなかった、甘い夢想に浸ることのできた時代の話である。どうしようもないほど甘く、二度と手に入ることのない思い出である。

「ねえねえエレン、ここ見てよ」

アルミンのきらきらと輝くまあるい瞳を思い出す。泣き虫なその瞳は、いつも透明な水の膜に覆われて誰よりも光を多く集めているようだった。泣き虫なアルミン。そう、だから、その時にエレンは言ったのだった。冗談半分、本気半分で、こんなことを。

「お前の涙で塩の湖が作れんじゃねえのか」

あの時アルミンはなんと答えただろうか。怒っただろうか、笑っただろうか。エレンは覚えていない。ただ、幼いながらに名案だと思ったのだ。塩が足りなければ。



「エレン、おい、何をぼうっとしてやがる」
「へ、あ、はい!」
「てめえ以外全員食べ終わったぞ」

後片付けはてめえの仕事だろうが。
そう言うリヴァイ以外に、食卓に残っている者はいない。ただ汚く食べ尽くされた白い皿が並ぶばかりである。エレンの正面で、月を背後にしながらリヴァイは珈琲をすすっていた。残り少ないからと、ここでは彼だけが飲むことを許されている、一杯の苦味。けれどそれは決して、塩ではないのだ。

「兵長」
「なんだ」
「涙は塩でできているそうです」
「だからなんだ」
「兵長は、泣かないのですか」

塩が足りなければ泣けばいいのだ。
泣き虫のアルミン。そう言ってからかったこともあるけれど、エレンだって、泣かないわけではないのだ。ミカサだって、そう。彼らは、自らのうちにしっかりと涙の湖を持っている。汲み上げる頻度こそ違えど、皆がそれを持っている。
ならば、目の前の人物は、どうなのだろう。
人類最強の男。巨人を切り伏せる鬼のような男。刃のように冷たい男。けれど、そうではないと、エレンはもう知ってしまった。目の前の人類最強は、人間なのだと、そんな当たり前のことに気がついた。冷たい瞳がエレンを見つめている。けれどその瞳が真に冷たいわけではないのだと彼はもう知ってしまった。
目の前の男は、部下の不躾な質問にも真剣に向き合う男なのだと、彼はもう知っている。
時間にして数秒だったに違いない。この日エレンは全て合わせて上官の時間を三分奪った。それは決して許されることでは無かったが、リヴァイはそれを咎めなかった。その代わりにゆっくりと答えたのだ。

「俺が泣いたら」

人類が滅びるだろうが。
その答えにエレンは納得した。フォークと皿がぶつかれば音を立てるように、エレンはその答えを受け入れた。だから彼は部下として正しく答えを返したのだ。

「はい」

瞳は揺らがないまま、リヴァイはまた一杯の珈琲をすする。エレンは一人、残った食事を続けている。生きるために。無心に口の中に放り込んでいく。なかなかちぎれないベーコンを噛みながら、彼はぼんやりと先ほどのリヴァイの言葉を反芻している。
ああ、彼は味のついたじゃがいもを食べることすら許されないのだろうか。
泣かないのだと、彼は言わなかった。彼はただ、泣けないだけであった。砂のような味のパンを噛み締めながらエレンはリヴァイの瞳を眺めた。その奥に、塩の湖を探そうとして。けれど視線を逸らしていない筈なのに、何故だかエレンの視界は揺れた。訝しく思って強く瞬きをすれば、口の中には確かに塩の味がする。それを見て、ホンの少しだけ驚いたような顔をして、リヴァイはその眉間の皺を僅かに緩めた。それもまた、人間らしい顔だった。

「お前はパンのために泣くのか」

そう言って、人類最強の男は笑った。人類を滅ぼさないために笑った。いい大人が飯のために泣くわけねえだろ、てめえはガキだな。そう言って笑った。
「うまいか」と彼が尋ねるので、エレンは静かに頷いた。塩味のするパンの味は悪くない。



***



あなたが泣かないから泣くのですなどと、四肢が引きちぎられても言えるものか。塩気のある食事のために自分は泣くのだ。いつか大人になった時、それすら許されなくなるのだから。







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