And But Cause I love you


世界の質量

僕が愛した世界に



***



乱暴に自宅の扉を開ける。キッスの心配そうな鳴き声が鼓膜を揺さぶった。思い切り、未練も何もかもを断ち切るように閉めた筈のドアは、思いのほか情けない音を立てて閉じる。
まるで僕みたいだと、我ながら陰鬱な思考で思った。僕みたいな音とは実際なんだろう。冷静に考えればよく判らない。
何もかもがうまくいかない日とうのは世の中に確実にあって、でも次の日になれば忘れてしまっているような瑣末であることが多いのだ。
だけれど。だけれど。何もかもがうまくいかなかった訳では無くて、別に何もかもがいつも通りに進んでいて、都合の悪いことなんて一つも無くて、体調だってすこぶる健康で世の中に悪いことなんて一つも無いようなそんな時だって、何故か唐突に色々なことが悲しくなってしまってつらくなってしまって呼吸すら喉に詰まるような感覚に襲われることがある。
酸素は何故こんなにも重いのだろう。何故こんなにも巨大な質量で僕の貧弱な身体に入るのだろう。あまりにも強靭なその塊を噛み砕くことも出来ずに口にすら含めずに呼吸を止めた。
息苦しくなって死にそうになった。開いた口から変わらない酸素を取り込む。痛い。痛い。ひっかかる。肺にまで届かない。それでも僕の身体と心臓は安定してまた世界に戻ってきた。
何もかもの意味が判らない。何が判らないって、自分自身だ。なんでこんないきなり感傷に浸っているんだか、僕にだって判らないのだ。落ちつけ。落ちつけよ。どうしちゃったんだ。
そんなにも生きているのが辛くなったのか?嘘だろう?だって悲しいことなんて一つも無かった。朝はすがすがしく目覚めた。肌を刺す空気が心地よかった。キッスも気持ちよさそうに羽ばたいていた。
占いに来たお客さんは皆気の良い人ばかりだった。死相が見えた人もいなかった。昼食は適当に残り物で作った割に美味しかった。我ながら。
帰り道に子供が落としたキーホルダーを届けた。とても美しい笑顔としての笑顔でお礼を言われた。小さな手で花を渡してもらった。彼女にふさわしく、小さく輝く黄金の花だった。
そうだ、そう。あれを活けなくては。死んでしまう。とりだした花は少し生気を失って下を向いていたけれど、まだ死んではいなかった。よかった。ほら、今日悲しいことなどは何もないのだ。
少しだけ酸素は僕の喉を通るようになった。普段花を飾るようなことはあまりないけれど、一輪ざしの花瓶。一つくらいはあるはずなのだ。
貰い物として花は定番で、捨てる訳にもいかないから、そう、一輪ざしは珍しいけれど、それでも一つくらいはあるはずなのだ。大丈夫。僕は覚えている。
左上の棚。手を伸ばして開けて更に上段。一番上に切子ガラスの繊細な、緩い曲線を描く水のように透明な花瓶。急いで本物の水をいれて、萎れかけた花をさす。
あとはこのまま自然に任せるしかないが、おそらく大丈夫だろう。そうだ。きっと大丈夫だ。一体全体自分は何をこんなに焦っていたのだろうと思う。何に追い立てられていたのだろう。
もう空気は僕を攻め立てなかった。先程までの攻撃が嘘のように静まり返っている。僕の手足も何の問題も無く心臓の言うことを聞いた。
深く吸った空気に、先程の花の香がしたような気がしたのは気のせいだろう。
家の外から、僕の家族の心配そうな声が聞こえた。ああ。そうだ。僕はキッスを放っておいてしまったんだ。
心から申し訳ない気持ちでいっぱいになる。待たせてしまった。心配をかけてしまった。
何か持っていこうかとも思うが、夕飯にはまだ早い。それに、そもそも夕飯の支度なんてしていない。作ってから外に出るか?そんなの、心配をかけるだけだろう。

「ごめんよキッス」

ドアを開ければ、いつもは家の横の空き地で休んでいる筈のキッスが入口の前で待っていた。相当心配かけてしまったなと思う。
言葉こそ通じないが、目はひたすらに深い色をたたえていた。優しい優しい黒より深い濃紺。
すり寄って来る。僕の家族。お互いに一人きりの家族だった。僕たちは。

「ごめんね、心配かけちゃったね」

大丈夫だよ。最後に言うつもりだった言葉は喉の奥に消えた。また肺が痛み始める。喉が空気を受け付けなくなる。
玄関を出てすぐ、キッスの上空に隠れていた夕焼け。その片鱗が僕を襲う。呼吸が止まる。
おい。おいおい。嘘だろう。この歳になって、夕日で胸が詰まるなんて。
様子が変わった僕に気がついたのか、キッスが不安そうな鳴き声をあげた。大丈夫と伝えたいが言葉が出ない。
欠片の夕日が僕を浸食する。糞。どうしてだよ。今日は一つも悲しいことなんて無くて、穏やかに過ぎ去った平穏な一日だったのに。
無理やり喉をこじ開ける。巨大な酸素を必死に肺へ押し込む。言うことを聞かない立ちすくむ身体を無理やり動かして、キッスと壁との隙間を通り抜ける。
いつも彼が休んでいる場所へ、開けた場所へ身体を運んだ。
目の前に広がるひたすら真っ赤な夕焼け。千よりも多い色々に染まる鱗雲。
僕の目が全てを捉える。一つ残らず。一つの元素も逃さずに、世界中の全ての赤を僕が見る。名前なんて知らない。世界の物の名前一つ一つなんてちっとも理解していない。
でも、それがどうしたっていうんだろう。世界の全てを知っているなんておこがましいことを思ったことなんて無い。
いや、幼いころに無いとは言わないけれど、自分は無知なのだと言うことを思い知らされ続ける年月を過ごしてきた。
未来が判ることがなんだというのだろう。僕はあの少女に貰った花の名前一つ知らない。何も知らないのだ。結局のところ。世界のことなんて。
でも、そんなことはずっと前からわかっていたことで、どうして僕は今こんなにも泣きそうになっているんだろうか。あまりにも空が広すぎて、今にも僕まで燃えだしてしまいそうなのだ。
体の内側から、肺が、焦げて焦げて、灰になって風に溶けていくんじゃあないかなんて、そうなればそれはそれでいいだなんて。
僕はどうしてこんないきなりセンチメンタリズムに浸る羽目になっているのだろう。僕は僕自身が判らない。ただ、ただ身体が呼吸を拒否するだけだ。
違う。身体は求めているけれど、酸素が燃え盛るから、喉を通らないのだ。酸素を失った肺が悲鳴をあげる。締め付けられる。助けてくれ。誰が?誰を?僕を?嘘だろう?自分の面倒くらい自分で見ろよ。
風だけが音を立てずに動く世界で、僕は世界に反逆を起こすかのように声をあげた。あげたつもりだったんだけれども、情けない声にもなっていない声が漏れただけだった。
「あ」という音にすらなっていないかもしれない。開けた口から夕日がどんどんと入り込んで僕の身体を焼いていく。それでも悲鳴をあげてこの世界の均衡を崩すのはよく無いことのように思えた。
それくらいなら焼かれてしまった方がいいかもしれない。いや。違うだろう。何を考えているんだろう。僕は。おかしいだろうその思考は。正気を取り戻せ。
さっきどんなに弱っちくても声は出たじゃあないか。もう一度。

「う、あああああああああああああああああッ!!」

出た。既に尽きていた筈の空気を体中から全部絞り出して叫んだ。声の続く限り、血液中の酸素も全部吐きだして、もう何も出無くなってようやく僕は声を止めた。
その瞬間に酸素が一気に入って来る。もう僕の喉で引っかかることの無い、滑らかな空気だ。世界が僕の傍に戻って来る。
頭上に広がるのはただ美しいだけの夕焼けだった。もう空は夜に色を変え始めている。いったいどれくらいの時間飲みこまれていたんだろう。我ながら情けない。
僕の叫びを聞きつけたのか、キッスが隣で不安そうな瞳を僕に向けた。今度こそ「大丈夫だよ」と伝える。大丈夫。平気だ。まだ胸は締め付けられるが、そんなものはささいな物だ。
もう一度大きく深呼吸をした。世界を取り込む。まったく、僕もいいかげんにメンタルが弱すぎる。
今日と言う日を最初から最後まで思い返してみたって、やっぱり悲しいことなんて一つも無くて、少し遡って考えてみたって、そんな落ち込むように悲しいことなんて一つも無かったのだ。
だからこの感傷にはやっぱり理由なんて無くて、ただ丁度、いつもなら気にしないようなほんの小さな心の綻びに、丁度赤が浸食してしまっただけなんだろう。全く。恥ずかしい。
こんな姿、他の人には見せられないなあと思う。

「ありがとうキッス」

お前にだけなんだよ、こんな姿見せられるの。そう言って撫でれば気持ちよさそうに目を閉じた。僕の言葉をきっとこいつは理解してくれている。
甘えっぱなしだけれど、家族だから許してもらえるだろうか。
お前に何かあったら、僕は全力でそいつの息の根を止めに行くんだろうなあとか、暖かい身体を撫でながら物騒なことを思う。でも本心だ。暖かい。暖かい。温もりだ。
右の眼から一筋だけ涙が流れて、僕は本格的に溜息をついた。本当にどこまで弱ってたんだ。こんなに幸せなのに。こんなにも美しい世界で僕は僕でいるだけで涙が出てくる。
僕以外の何かになれる筈も無いから、きっとこの先もこのまんまなんだろうなあとか情けない予測をたてた。そんなものかもしれない。
実に弱い僕だけれど、それでも自力で世界に立ち向かえるくらいには僕は僕を世界に作った。生きている。ここに生きている自分。
人の生とか死とか、自分の存在とか世界の意義とか、小さい子供のように小さい子供の頃から考え続けて、とっくの昔に出た筈の答えが、それでも僕を追いたてる。
ふとした瞬間に。なんの気なしに。きっかけも些細に頃合いも無秩序に。
何度世界に染みこまれてこの身体を焼かれて湖に沈んで海の泡になって森で朽ちていったかをもう僕は覚えていないけれど、それでも今ここで僕は立ち上がることに成功しているんだから、そこの所はよわっちい僕を認めてやろう。

「でも、トリコ達には絶対に秘密だぞ」

小さく笑えば、答えるように明るくキッスが鳴いた。さあ。もう夕焼けは消えた。世界は夜になった。夜になったんだから、夕飯を作らなくちゃあいけない。
そう言う風に世界は出来あがっているのだ。御飯を食べて、眠る。呼吸をして、生きる。右足を出せば左足を出すし、キッスが羽ばたけば風が舞うだろう。そういう風に出来あがっている。美しい世界だ。

「そうだ、明日、トリコの所にでも遊びに行こうか」

そう言えば、了解したとでも言いたげに一度、足を付けたまま彼は羽を一振りした。ニッコリ笑う。我ながら良い案だ。他の奴を誘っても良いかもしれない。あの彼の青空に会いに行こう。
幸い天気は明日も快晴のようだし。誰かとみる名前も知らない夕日はきっと美しい。それとも少し調べてみようか。あの色々をなんと呼ぶのか。
赤と、オレンジと、朱色と、黄色と金と紫と紺と、やっぱり名前の判らない色々を混ぜて溶かして感情のように揺れるあの色。
思い立ったが吉日とはいうけれど、そんな彼の流儀に付き合う必要はないだろう。僕には僕なりの世界への向きあい方がある。
静かに玄関のドアを開ければ、さっき挿した金色の花が空を向いて咲き零れていた。



***



僕が愛する世界だ

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